忘れるために書くということ

1年ほど前の記事で,私は「忘れないために書くか忘れるために書くか」というものを書いた。 

kishiryu.hatenablog.com

 自戒も込めて,今改めてこのことについて考えてみることにする。

 

最近,このブログの更新が滞っている。私が如何に物臭な人間であるかが如実に表れていると言えるだろう。とは言え,私は書きたい記事が沢山あるのに書くのが面倒でブログを放置していたわけではない。むしろ逆で,何を書けばいいのか分からなくなったから,書こうにも書きようがないのが現状である。だったら,素人のウェブの雑記なのだから,書きたくなければ書かなければよいという,至極真っ当な批判が私に向けられてしかるべきである。しかし,一度書き始めたからには,終わるときは「終わる」と言ってから終わるのが筋というものであると私は考えており,そして私はまだこのブログを終わらせたいわけではないのだ。仮に一度終えてみたとしても,いずれまたどこかでやりたくなるに決まっている。

ブログを終わらせるつもりがないのならば,記事はできるだけ更新し続けるべきである。終わらないだけで続かないなら意味はない。では,私は何故,今,記事を書くことができないでいるのだろうか。その問題点を解消すれば,あるいは記事の更新を継続できるかもしれない。

そこで今回の主題に立ち戻ることになるのだが,蓋し,私は今,何かを忘れられるほどに,何かを覚えてはいないのではないだろうか。何かを忘れるためには,必然,その忘れるべき何かを覚える必要がある。別にここでの覚えるというのは記憶に定着させるという程強固なものである必要はない。ただ単に私の五感に触れさえすればそれでよい。それで,私は今,何を感得しているであろうか。意識してみれば,椅子に腰を掛け,執筆中の画面に向かい,幾分か静かになった町の喧騒を聞き流しながら,茶を啜りつつ,キーボードを叩いている。これらは全て私が感得しているものである。私はここで,この続きとして,特に感得しているものはないとでも綴ろうと思って筆を進めていた。しかし,改めて意識してみれば,確実に私は様々なものを感得しており,感得し続けている。であれば,私に足りていなかったものは,忘れるべき何か,覚えるべき何かではなく,それらに向けるべき意識であったようだ。

この直前の記事を執筆してから今日まで,本を1冊も読まなかったわけでも,映画を1本も観なかったわけでもない。ただ,それらを忘れようとせず,したがって覚えようともしておらず,一つひとつの事象に意識を向けていたかった。あるいは,私は無意識の内に,意識を向けることを面倒がっていたのかもしれない。物臭の物臭たる所以である。

久しぶりに何か書こうと思ってこうして考えを巡らせてみたが,自分の中では中々満足の行く結論を得られた心持ちでいる。これからは物事に意識を向け,そしてそれを忘れるための努力をしていこう。また物臭が顔を出すまでは。