西林克彦『わかったつもり:読解力がつかない本当の原因』(光文社新書、2005年)
センター現代文の解答で行う操作は、論理的類推・解釈可能性・妄想の三つだと、予備校の授業でむかし教わった。
論理的類推は本文に書いてあることから直接導ける内容で、適切な選択肢の最適な候補だということは覚えているのだが、解釈可能性と妄想のところをぼんやりとした理解のまま聴講していて当時から内容を把握できていなかった。
どちらも本文に書いていない内容であるという共通項があったと思うが、妄想の方が誤りが甚だしいくらいの感覚で乗り切ってしまっていた。
ここの所の不理解は当時から意識していたから、大人しく講師に質問に行けばよかったと、長年、薄ぼんやり思い続けていた。
本書を読んで、両者の区別は解釈の整合性の問題だったのではないかと、何年もの時を経て理解を更新できた。
ある解釈について、本文に明記はないがそれが否定される描写もない場合は、解釈可能性として適切な選択肢の候補に残り、その解釈に反する記述があるという意味で本文に書いていないといえる場合は、妄想として適切でない選択肢の候補になる、ということだったのではないだろうか。
どちらも「本文に書いてない」という、曖昧というか、ミスリーディングな捉え方を自分勝手にしてしまっていたせいで、悩みの種を増やしてしまっていたように思う。
本文を読んで、本文のない所でどれだけ本文の内容をそのまま再構成できるか、ということが「わかる」ことにおいて重要な気がしている。
特定の文脈から本文を捉え直す際、「わかったつもり」の状態では、本文があっても解釈に必要な適切な部分を参照できず読み違えることがあろうけれど、本文にあたりなおすことで誤読を修正できる可能性は開かれている。
しかしテキストがなければ、誤った理解をしてしまっていると、それは誤ったまま残り続け、修正されることがない。
本文の再参照のときに、自身の理解が誤っているのではないかと思い直せるために、本文の一度の参照と再参照との間の、本文が「ない」時点においても、本文の内容を再出力する精度への意識が欠かせなそうだ。
私は大体何を読んでも「いろいろ」に全部突っ込んだわかったつもりになっていることが多く、再出力、再構成がまるでできないから、理解を深めたい時と場合には、この点注意して読解をしてみたい。
着せ恋実写ドラマ化に思うこと
「刻央が前作の アニメにキレてた 理由の一つが」
「キャラの感情や 意図を理解されて なかったからだ」
「理解されないまま それを広げられて 盛り上げようと されても
茶化されてる のと同じだ」
「必死に 積み上げてきた ものを公の場で 潰されて」
「腹が立つの なんて 通り越して ただただずっと 虚しい」
溝上将護*1
正味、文脈はかなり異なる。
上記発言はファンに好評だったアニメ化が自身の気には召さなかった原作漫画家の意図を、累計2000万部を数える自作漫画の実写映画化が大ヒットしている同業者たる漫画家が説明している場面である。
作品と現実世界との関連で読むならば、福田先生が着せ恋アニメ化に何か思うところがあったのかと考える方が比較的真っ直ぐではある。短絡かもしれないし、初めから回路は断絶しているかもしれない。
私は着せ恋はアニメに心打たれて原作に入ったから、アニメの出来には非常に満足しているものの、原作と見比べれみれば、登場人物の動き、台詞、外見に差異があったり、シーンが追加されたり登場人物が省かれたりしていて、やはり様々なところで違う部分は少なからずあった。
BD特典のブックレットやTVアニメ公式ファンブックはまだ紐解けていないから、ひょっとするとその辺りに福田先生の見解があるかもしれないが、とりあえずそれは今回考えないことにする。
なお、原作者の関与度と、原作者の満足度と、視聴者の満足度は、それぞれ異なる指標である。
着せ恋内での漫画実写化の描き方は好意的と言ってよいだろう。
上記の溝上将護の『ハッピーバッドエンド』は内容は不明ながらも大ヒット、映画好きという喜多川真澄曰く面白かったらしいし、文化祭編で主題となった『生徒会長はNo.1ホスト』は累計1000万部を超える漫画が原作でアニメ化と実写ドラマ化がされ、そのドラマは好評であることがうかがえる。
冒頭引用した第101話はヤングガンガン2024年No.05が初出で、その発売日としては2024年2月の第3金曜日たる16日の号となる。
ちょうどドラマ『セクシー田中さん』*2に纏わる一連の事件報道の熱が冷めやらぬ時期で、最新話を読める興奮とは異なる熱が横隔膜の辺りで突き上げを食らっていたように覚えている。
二次元と三次元の壁は非常に大きい。
三次元の時間的物質的制約は二次元方向の自由度を根本的に受け付けないのかもしれない。
『セクシー田中さん』のみならず、実写映像化の失敗談は枚挙に暇なく聞こえてくるようにも思う。映画『モンスターハンター』やドラマ『イチケイのカラス』などは個人的には評価が高くない。が、『イチケイのカラス』は映画も製作され世間的には大ヒットだった感がある。それを言うと、『セクシー田中さん』の話は一般的な実写化失敗とはまた別の方向に話が膨らんでしまっているかもしれない。
他にも掘ればいくらも失敗談のある作品は出てこようが、一方で一般に評価の高い実写化もまたそれなりに話を聞く気がする。映画『キングダム』、映画『るろうに剣心』といったシリーズや、映画『銀魂』、ドラマ『ミステリと言う勿れ』などは、私はどれも見ていないが好評であるような感想は度々目にした。
あるいは良いとも悪いとも特に話題にならない実写化も、無数にあると思われる。世間的な評価は分からないが、個人的に良くも悪くもないというと映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』で、良いところもあるし悪いところもあり結局甲乙つけがたしというのが映画『BLEACH』である。
結局、良いものもあれば悪いものもあろうし、様々な制約上、実写化での翻案において原作から乖離せざるを得ない部分は少なからず出て来ようから、原作との差異の面においては数限りなく批判点を挙げられてしまうことはあるだろう。
しかし、実写映像化が三次元化であるとするならば、同じく三次元化である舞台化は、映像化ほど失敗談が大きく取り沙汰されてはいない印象である。
その界隈には明るくないので、実は全くそうでもないのかもしれないが、少なくとも私にはそういう印象がある。
テニミュをはじめ、最近は2.5次元舞台なる言葉をよく目にするし、案外様々な作品が舞台化されているようであるが、これといって代表的な失敗談のある作品は思い浮かばない。
私はミュージカル文化に疎いためか、かつてCSで観たBLEACHのミュージカルは可もなく不可もなく、dアニで観たパタリロ!のミュージカルは正直あまり好みではないといった印象だが、前者は特に評判を聞かないものの、後者は世間的にはそこそこ好評だったのではないかと思う。
だが、制約の面で言えば、実写映像より舞台の方がさらに自由が制限されているはずで、原作からの乖離点も比較すれば後者が多いに違いない。にもかかわらず舞台より実写映像に苦情が多いとすれば、実写映像は映像であるところに二次元との接近を見出されてしまっているのではなかろうか。実写ではあるが、映像だから出力される表現として二次元が近くなっていて、過度に原作と比較されるのかもしれない。
前段でまとまりをなくしすぎたので、話を変えて簡単に別の思いを述べるのすれば、ドラマの製作には多様な利害関係者が生じるものとは思うものの、それによって生じる経済的な制約が、表現上の制約として現れた先に、関係者の精神と人身との自由の制約として帰結してしまう危険は、常に顧みられてほしい。
また、実写ドラマはコスプレとイコールではない。
着せ恋でミヤコが一枚の写真の中においての竜胆司の再現を目的とすると語る場面もあったが、連続したシーンでの全身と音声を使った演技がドラマには必要不可欠となってしまう。カメラの外の努力はどちらにもあるが、ドラマはカメラの外が狭くなりがちであるようには思う。
『生ホス』に関して、原作とアニメの履修のみでドラマは観ていない喜多川海夢と、他のメディアでの閲覧は不明だが主としてドラマでの内容を話題にしていたクラスメイト達とで、特定のシーン、登場人物、劇中の衣装などについて共通の理解像が描けていた。
別にそれが唯一正しい実写化の形だとまで強弁はしないし、できないが、特定の作品を参考に留めず原作とし、その名を冠して翻案することの意義を汲み取れる内容であれば、原作ファンとしては心穏やかに作品を楽しめるとは思う。
叶うことなら、大いに楽しめてほしい。
宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社、2023年)感想
ブクログの2024年7月開催「#元気が出る!3選」なるブックリスト特別企画の結果紹介ページ*1のトップに本作が紹介されていたので、本作を読んで元気が出なかった側の意見もここに一つ残しておこうかと思う。
独特な感性を持つ少女・成瀬あかりの、だいたい中学2年生から高校3年生までの期間を、周囲の人間の視点から描く短編5本と、本人視点ではあるが三人称形式で綴る短編1本との、計6編からなるのが本作である。
掲載順で1本目の「ありがとう西武大津店」と3本目の「階段は走らない」の2編のみ過去に小説新潮に掲載されたもので、それら以外の4編は書下ろしらしい。
成瀬視点の6本目「ときめき江州音頭」は、他人を腐すところもなくて、読後感も爽やかと言ってよく、これが本作の最終話であるところを取れば「元気が出る」と言えなくもないとは思うが、如何せん他の話で人間の日常的な嫌味や悪意が随所に滲み出ていて、最終話だけではその生理的嫌悪感が私の中では覆らなかった。
成瀬以外の視点では人の悪意の記述が明らかで、成瀬視点では他人の悪意に気付いていても成瀬自身は悪意なく人と接していて、悪意は本作の人間描写のひとつなのかもしれないが、本作では基本的な文体として表現されているがゆえに、やはり気持ち晴れやかに読み通すのは難しく感じる。ちくちく言葉という言葉を思いついた人はこの感覚が強かったのかもしれない。
本作は2024年の本屋大賞を受賞していて、帯には「\かつてなく/最高の主人公、現る!」などとあり、世間の受けや売り手の期待は非常に高いようなので、実際多くの人にとって本作は元気が出る作品なのかもしれないが、文字の上での悪意があるということには注意して読まれたし。
【ネタバレ注意】かまど=みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む:走れメロス・一房の葡萄・杜子春・本棚』(大和書房、2024年)感想
かまど=みくのしん、と書くと、かまどとみくのしんが同一人物のように見えてしまうが、わたしが倣っている流儀では、日本語で共著者二名を併記する手法がこれだから仕方がない。
最近流行の一般名詞をそのまま筆名としているような著作の、しかもそれが二名の共著である場合などは想定されていない流儀であろうから、別の流派に倣ったほうがよかったかもしれないが、ひとまず今回はこれで行く。
みくのしんは読書の天才かもしれない。高杉流読書術の開祖になれると思う。
まず、彼が行っているのは音読である。書いてある文字を捕まえて、声に出して読む。音という三次元的かつ時間軸も存在する形の流れに文章を固着させるから、ともすれば黙読でなんとなく読んだつもりになっただけで読めていないまま先に進んでしまう危険を緩和できている。
わたしが小学生の頃、国語の宿題に音読がよく出された。
教科書の作品を読み上げるのを保護者に聞いてもらい、「音読カード」という台紙に、日付と、作品名、ページ数、それから評価を記録をして、最後に保護者のサインまで求めるというものだった。
わたしは音読が恥ずかしくて嫌いだったから、ほとんど親に聞かせることなく、記録を捏造して提出していた。サインはシャチハタを打っていたが、まじめに取り組んでいなかったのは先生にはバレバレだったと思う。
そんなことをしていたからだろう、まっこと自分勝手な読み方が癖についてしまい苦労をしている。今にして思えば、勿体ないことをしていた。
音読は、文章自体を見落として本当に読み飛ばしてしまうことがなければ、いやでも書いてあることを流れに沿って順番に追っていくことになる。
そしてみくのしんは、読んだ部分についての理解に妥協を許さず、けして分かったつもりのままにしておかない。
ここで、書いてあることを分かったつもりにしない、というのは、一字一句の語釈を正確に把握する、ということではない。
文章を真っ直ぐに受け止め、書いてある場景はどんなか、人物の気持ちはどうなっているかを、腑に落ちるまで考えて自分の中で確かに理解する、という行為をおこなっているということだ。
なんとなく、まあこんな感じのシーンだな、と思うではなく、たとえ一部の単語の意味が正確に分からなくとも、つまりこの場面はこういう状態なんだなと、必ず納得をして次の文に進んでいる。
この操作があまりにも重要である。
これができるのは、みくのしんが経験の抽斗が豊富であり、その感覚を言語描写に適用させる技術があまりに巧みであるからかもしれない。
みくのしん自身も、本は読んだことがなかったとのことだが一人の文筆家ではあり、文豪が言葉を選び抜いて世界から切り出した文章から、その言葉の拡がり抜き取って再度世界を構築しなおす言語センスは高度なものにも見える。
彼の各作品の感想文を読んでも、正直な心情をそのままに読み取れる文章をきちんと出力できている。言葉に嘘がなく、心に真っ直ぐ刺さってくる。
この感覚が修練で習得できるものでなければ、高杉流読書術は後継者探しに難航するかもしれない。
みくのしんは、『杜子春』の感想から、小説が構成と文体の文芸であると感得しているようであるが*1、その理解はありつつも、構成をメタとして冷めた消費の仕方をすることなく、あくまで描写から感取できる世界の認識を第一として読書していた点が、素直に作品に向き合おうとする態度として非常に良いと思う。
また、みくのしんの読書する態度として、主人公の隣に一緒にいるかのように振る舞う、というのも一つ特異な点に見える。
単に登場人物に共感したり、自身と同一視したりするのに飽き足らず、その場面にまるで自分が存在するかのように、主人公に語りかけるべき言葉を探したり、作品世界に干渉しようとさえする。
こう書き出してみると、夢小説のようだ。ひょっとするとみくのしんには夢小説家の適正もあるのかもしれない。
しかし実際には二次的な創作はしていず、あくまで読書をしているのみだが、それでいて高度な読解にもなっている。
視点としてのメタな自分を維持しておくのも、高杉流読書術のひとつのヒントになるかもしれない。
わたしは、みくのしんほどではないがかつて読書は避けてい、そこからみくのしんとは違う形で本は読むようになって、いまでもある程度は読書の習慣が続いているが、小説をここまで味読することはやってこなかった。
最近ではむしろ、大筋さえ把握できればよいといわんばかりに、細部の描写がこぼれ落ちていくことも構わず、力任せに早く読み進めてしまいがちだったように思う。
精読、というのとは、また違うが、本作を切っ掛けに、描写を漏らさず取り込みながら読み取る読書というものも、意識して行っていきたいと決意した。
【ネタバレ注意】桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet〔40版〕』(角川文庫、2023年)
初出は2004年に刊行された小説で、それから20年ほど経過しているが、そのときのレーベルが富士見ミステリー文庫とミステリに分類されそうだったため、一応、ネタバレ注意の看板を出している。ジャンルとは初出時のレーベルであるという言説は、私の観測範囲では一定の支持があるようであり、私としても有用性があると思っている。
角川文庫としての初版は平成21年とのことなので2009年であるらしい。
冒頭、海野藻屑の死亡記事から始まる。年を経るにつれて生命が失われることへの忌避感が増していて、ましてそれが子どもであったから、初っ端から少しく辛い気持ちで読み始めることになった。
だが、第二章に入ったあたりで、最初に藻屑の死を宣告されていて良かったと思った。藻屑が死ぬと知らずに読んでいて、物語のとおりに死んでしまったら、心に受ける傷がより大きくなっていたと思う。死を受け入れる準備が、完璧ではないにせよ、できていた。
解説ではこれは悲劇の構造によるらしい。正味、登場人物の死が判明していることと、物語の結末が判明していることとは同値ではないように思われ、全貌を知っている演劇の上映で涙を流すこととは話が違うような気もするが、ギリシア悲劇は結局履修せず仕舞いとなっているから、深く考えるのはやめておこう。
第一章はとかく辛かった。100ページの間に小説という媒体への絶望を何度も感じた。しかし第二章に入って、藻屑の嘘でない部分が明らかになるにつれ、一転して絶望から解放された。私としてはこれをカタルシスを呼んでも良い。
明らかになる事実のための説明や第一章からの布石については、初出から20年経っているがゆえに普遍性を獲得したのかあるいは私が知らず知らずのうちに本作の解説的な言説を目にしてしまっていたのか、ある種のデジャ・ヴュ感はあったものの、それはそれとして山田なぎさの心情にしっかりと寄り添うことができるようになったのは、優れた文体に依るところが大きいと思う。
悲劇の部分以外でもとくに深い考えを開陳できたわけではないが、ひとまず吐き出したかったことは吐き出せたし、それによって読み終えたときの衝撃も和らいできたから、とりあえず感想はここまでとする。
【感想】岩尾俊兵『世界は経営でできている』(講談社現代新書、2024年)
世界は慶應でできている:文学によって語られる必要がある
本書は冷笑体エッセイである*1。
経営学の専門家による著書だが、エッセイであるからして、専門的理論的な高度緻密の学術議論が展開されるわけではない。経営的な視点から世界を冷めた目で見てちょっとおかしく記述しようとする試みの一つである。故に必ずしも自然に見えない事例の設定、論理の飛躍、自他問わない極端な揶揄などが含まれているきらいもあるが、そのような表現にくすり、にやりとできる人なら本書を活用できるだろう。醤油過多でソース過少のジョークがなぜ総スカン上等? 好きな人にはたまらないといったお味。すなわち私のあまり合っていないお口。訪れる静寂の極地。諸手を挙げて本書に賛同することはできないが、だからといってその感想をチラシの裏だけに留めない自由は受忍してほしい。日本国憲法秩序の耐用年数が超過していないと信じられる限りにおいて。
経営的な見方でもって世界に参与できるようになろうという動線を考えると、本書もある意味啓発系の著作の一つといえるのかもしれない。
何かとマニュアルを作ってみても改善はままならない*2といってみた次の章ですぐ、マニュアルの有効性を説いて*3みたり、各章の独立性を掲げて*4おいて、特定の章だけつまみ食いすると本書の主張を取り違える*5と警告してみたりするのを、個別具体的な事例に即して臨機応変に対応するフレキシビリティの発現と見るか、その場その場で文脈に意外性のある裏切りを演出する批判のための批判的逆張りの幻出と取るかは、読者の判断に委ねられているのだろう。冷笑文体の強みであり、弱みである。あるいは昭和軽薄体の素地の上にあるが故なのか、その判断はそれらのエッセイに触れていない私にはしかねる。
以下、余談
冒頭に載せてみたパロディだが著者の学位を揶揄しているようになってしまって納得は行っていない。言葉を選ばずいうとサムイ。学術研究の能力と文学芸術の能力は必ず一致するものではない。
直接的な感情の発露を浴びるのが得意でないのかもしれない。だから熱血でも冷笑でもそれを波及させる矢印が読者に向かっているエッセイが苦手だったのかもしれないし、同様に登場人物相互の感情の揺動を中心とする小説も読みづらくなっているのかもしれない。お笑いはどうかという反例を唱えてみる。漫才、コント、落語その他形式に即したお笑いの構造物は確かに動揺に食指が動きづらくなっている気がするが、日常の延長線にある偶然的な笑いにはそこまで忌避感がなく、ではそういった素人目線のナチュラルな笑いが感情的でないかといえばそうではないことは容易に思われ、反例としての機能は半ばほどしか奏功していない。ジャンルエッセイも全然読んでいないが向田邦子『父の詫び状』は間違いなく面白かった。検証方法の検証にはなにより母集団が足りていない。まずは誤読も亦妨げず、唯速読すべし。量を担保するために。
本書の主張における本来の経営を阻害しその価値を奪取しているものが社会体制としての資本主義観と紐付けられるかについてはナンシー・フレイザー(江口泰子訳)『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書、2023年)を読み進める中で余裕があれば検討したい。
【感想】三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)
結論に同意するところは少なくないが、理由付けには飲み込めなかった部分もある。
社会学者の牧野智和の論を引くところに始まり、読書とはノイズの提示を受けることであると本書はいう*1。ノイズとは「偶然性」でありまた「他者や歴史や社会の文脈」であって、知識とは知りたいことにそのノイズが足し合わされているものだが、情報とはノイズのない知りたいことのみであるとして、知識と情報を区別している*2。
そしてインターネットの情報は自己が求める物だけをノイズが除去された状態で摂取することができ、ノイズを併せのむ必要のある読書はできなくなってもインターネットで情報収集はできるというような旨もいわれているが*3、インターネットの情報というくくりだと主題の限定性に欠ける気がする。
冒頭からくりかえし例えに出される『花束みたいな恋をした』のストーリーで、登場人物のひとりは読書できなくなっても自己啓発書は読めていた(そしてパズドラもできていた)という話が紹介されているが、ここで人文知の読書と自己啓発の読書が区別されるように、インターネットでは本書のいう知識と情報とのどちらも入手可能ではあるだろう。そしてインターネットにアクセスして時間をひたすらかけてしまうことのひとつには、たとえばスマホでショート動画を次から次へスワイプしていくことが最近では当然考えられてしまうように思うが、これはインターネットでの情報の摂取となるのだろうか。この場合、各動画SNSサービスのアルゴリズムでユーザーにマッチするようカスタマイズされた動画群が流れて行きはするであろうが、それは欲しい情報の能動的接種の面より偶然性に支配される面が大きいように思える。あるいは目的意識のないインターネットの使用はここでの論点に含まれていないとか、だいたい自分の知りたいものの方向性の中での偶然性だからやはりこれも情報の摂取だとか、このような事例が特筆されない理由も考えられはするのだが、読んでいてどうも腑に落ちない点が残る部分だった。
また、知識と情報の区別については、そもそもノイズという分類の標識がどこまで明確性を持っているのかよく分からなかった。行為主体が自己であればすべての文脈は自己に依存するもので、人文書の文章だろうがインターネットの特定のポストだろうが、どこまでも自己のみに引き付けて考えられる気がする。それは一般に偶然性の高い書物があるとして、しかしその書物から自分の知りたい情報のみを他者の文脈などお構いなしに抽出することはもちろん可能であろうし、逆にネットで何かを調べるときに、それこそSNSであれば他のユーザーの存在が前提となるからその他者性を引き出すことも十分に可能だろう。ノイズの有無というのは相対的というか恣意性の高い区分に思われた。
(2024年7月8日追記)
ノイズのない情報への懐疑は本書227ページ以下に存在した。結論の手前となる議論の前提のみの切り抜きになってしまっていたためその点は自らに誤読の責めを負わなければならないが、とするとどのコンテンツからでも自己の仕事以外の他者の文脈は摂取できるのに、あえて読書によってのみそれを推し進めることの格別の意味を再度検討したくなるように思う。
(追記ここまで)
以下、余談
働いていると確かに読書にかまけていられなくなるとは思う。労働後に疲れた頭で書店に行くととりあえず読みたそうな本を手に取って買い漁り、買うだけ買って散財することに満足したまま読まずに置き去りにしてしまうことが何度も続いている。積読を増やすにはいいが宝の持ち腐れでもある。本が買えてはいる点で何か労働による疲労とは別の問題が存在している気もしなくもない。忙しくなってからぜんぜん本読めてないよな、と思って読書記録をさかのぼってみると実はそんなに読んでいる冊数は変わっていないようにも見える。元からそんなに本を読んでいなかっただけであった。ある程度読書以外の文化の能動的摂取は行えているとおもう。ひょっとするとそれらも元を辿れば受動的な摂取に帰着する可能性も大いにある。とはいえここで自分の行いに予防線を張る必要はない。
ただ最近は小説を読むのに抵抗感が増している気がする。新書ばかり読んでいるせいだろうか。上で書いたことにも重なるが、好みの本の傾向はあるとはいえ、人文知のある実用書と自己啓発本の差はあまりはっきりわかっていない。本書も私にかかった読書負荷的には知識より情報寄りの本だった気がする。しかしあまり読んだことがないとはいえ私の中では自己啓発本の方がノイジーな情報に溢れている気がせんでもない。というか情報もないイメージがある。ない教養に縋りつこうとしているのかもしれない。
本書初読のときは修養と教養の変遷に関するくだりでかなりはっきりとした違和感があったのだが、あらためて前後行き来しながら読んでみたら何が違和感だったのかわからなくなってしまった。メモでも取っておけばよかった。
60年代に小説がテレビ売れしたことにその作者が怒って筆を折ったことと、現代に小説がTikTok売れしたことに書評家が怒りを表したことを同一の構図と捉えた*4部分にもかなり強い違和感があったが、いまあらためて読むとそこまで強くはなくなった。しかしある程度強い違和感は残っている。
上記は細かな話だが、それはそれとして労働の価値そのものにより注意を払ってもよいのではないかと思うのは、デヴィッド・グレーバー(酒井隆史ほか訳)『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020年)を先に読んでいたからまあ間違いはない。やはり気がつくと小説などではなく経済やら労働やら税金やらに関する新書なり実用書なりに手を伸ばしてしまうようになっている。そら恐ろしい。そしていままでそういう本にも手を出していなかったから、最近それらを読書管理アプリに登録して思いのほか登録者数が多いことに驚いている。労働を嫌って労働の本を読んでいるようではいつまでも労働から抜け出せそうにはない。