忘れないために書くか忘れるために書くか

どうにも最近物忘れが激しい。最近というかここ数年というべきかもしれないが,とかく記憶がスッと抜け落ちていく。何か買い物に行って買うべきだったものを結局買わずに帰ってしまったりとか,何か考え事をしようとして何を考えようとしたのかを忘れてしまったりする。例えばYouTubeの動画を見ていて,「あ,これについて後から調べよう」などと思ってしまえば,動画を見終わったときには何を調べようとしていたかすっかり忘れてしまっている。後に残るのは思い出せないけれど何かが調べたかったのだという気色悪さだけである。

この後味の悪さを何度も何度も繰り返しているうちに,普段進歩のない私もようやく学習したと見えて,近頃は些末なことであっても自分が何を考えていたのかメモを取るようになった。考え事をしているちょうどその時には取るに足らない内容だと思っていても,忘れてしまった後からすればそれが本当に取るに足らなかったのかすら分からないから,小さなことでも気味の悪さに繋がりがちである。というか,取るに足りるかどうかなどはどうでもよいことで,さっきまで考えていたことが思い出せない事実に腹が立つのである。

ときに,私の大学の先輩で,忘れるためにブログを書いていると仰っていた人がいる。確かに文字に残しておけば,いつでも自分の過去の思考を参照できるという安心感が得られ,忘れてしまうことによる後味の悪さを感じなくて済むため,少ない脳の揮発性メモリ容量を使用して無理に覚え続ける必要がなくなり,胸を張ってものを忘れることができる。

これはつまり忘れたくないことを忘れないように忘れるために書き残しているということであり,なんとも皮肉な状態だと感じる。忘れてしまうことは私にとってかなりストレスの高いことではあるものの,だからといって忘れないことは私にはできず,自然と多くのことが忘れられていくので,忘れないために書くというよりも忘れるが故に書くといった方が心情に適している気がする。

忘れるからメモに残さねばならないというと『博士の愛した数式』が思い起こされるが,私はまだこれを観たことも読んだこともない。できれば原作小説を読んでみたいが,先週読み始めた新書をいまだ読み終えられていない私に,この本までたどり着けるだけの時間と能力が残されているだろうか。