ミルクボーイ「コーンフレーク」「もなか」『M-1グランプリ2019』

今月22日に放送された『M-1グランプリ2019』は吉本興業所属結成12年目のミルクボーイが優勝を飾った。私はお笑いが多少好きな一般人だと自分では思っており,おそらくそのような自己認識の人間としては当然と言って憚る必要もなかろうと思うが,彼らは全くのノーマークであった。しかしながら決勝のネタは頗る面白かった。ただの一般人がプロの審査を経た結果を評釈するというのも普通おかしな話であるが,彼らの優勝は納得のいく結果であったと思う。

だが,果たして何故彼らの漫才を私が面白いと思ってしまえたのか,自分にとって若干疑問が残る問題でもある。私は神経質というかどうでもいい些末な部分が気にかかる性癖であり,たとえば同じく今年のM-1決勝で言えば,オズワルドのネタに全自動寿司投げ捨てマシーンというようなくだりがあったと思うが,ピッチングマシンのアームが,板前が寿司を乗せたときには掌が上を向いていたにも拘らず,寿司を投げつけるときには掌が下を向くようにひっくり返っていたのが気になってしまう程度には神経質である。少し考えれば,アームの機構が上手いことひっくり返る構造になっているものだったであるとか,そもそもそんなマシンは存在しないであるとか,漫才の設定を細かく気にしなくて良いであるとか様々の納得方法はあるのだけれども,少なくともネタ中にそのことに気付く瞬間には私の意識はネタの進行から離れてしまうため,ネタに没入し直すまでにワンテンポの遅れが出てしまうし,そのような疑問を持ったという記憶はネタを観終わった後にも暫く残り続けるのである。そういう訳で,何かしら構造に違和感を持ってしまう漫才のネタは,私の中で「あー,面白かった」という感情にすんなりとは結び付きがたい面があるにも拘わらず,ミルクボーイの漫才(1本目)は左程考える過程を経ることなく面白かったと思えてしまった。これは何故であろうか。

先程ミルクボーイが完全にノーマークであったと書いたが,私がミルクボーイのネタを観たのは今回の決勝が初めてではない。いや,少なくともこのエントリを書こうと色々調べ物をするまではすっかり忘れていたのだから「初めてではなかった」と書く方が適切なようにも思われるが,それはさておき,私は昨年2018年のM-1の3回戦と準々決勝のネタは,当時GYAO!で公式配信されていた動画の全てに目を通しており,ミルクボーイは昨年準々決勝までは進出していたので,少なくとも2回,彼らの漫才を目にしていたはずである。昨年3回戦のネタについては残念ながら全く記憶にも記録にも残っていないのでそれについては最早見ていなかったのと変わらないのであるけれども,準々決勝については記録を付けていたため,それを見て当時を振り返ることが可能である。

昨年の準々決勝のGYAO!での配信は,恐らく劇場での出番そのままの順番で視聴することができる構造になっていたように思われるのだが,ミルクボーイは昨年の準々決勝全進出者101組中97番目の動画に位置していた模様である。昨年の準々決勝はM-1公式サイトの記録*1によれば,11月5日月曜日には大阪のなんばグランド花月で,翌6日火曜日には東京のNEW PIER HALLで,恐らく進出者のエントリー地区毎に分けて行われていたようである。配信では東京会場の方が動画順的に先で,大阪会場の方が後の順番に変わってはいたものの,ミルクボーイは大阪会場でもトリに近い順番であったのは違いない。公式サイトの会場情報詳細*2を見るに,東京は準決勝進出者がばらけているものの,大阪ではトリに近い組が団子になって準決勝に進出しているようにも見える。具体的には,ミキ,ミルクボーイ,からし蓮根,アキナ,和牛,スーパーマラドーナが大阪会場最後の6組であるが,この中でミルクボーイ以外の5組は準決勝に進出していた。逆に言えばミルクボーイだけは準々決勝で敗退していたのである。実際の所は私は全く分からないが,この大阪会場ラストの面々の準決勝進出具合を見るに,ここでは有力なメンバーが後ろにある程度固められていたのではないかとも思われ,もしそうであったならミルクボーイは昨年から既に若干頭角を現しかけていたのかもしれない。

M-1公式サイトではネタ順の確認はできるものの,流石にネタの中身までは確認できない。今年のM-1準々決勝・3回戦動画のGYAO!配信が決勝の放映開始直前に終了したように,昨年の配信動画も既に消滅し,再度の公開はされていないようである。偉かったのは去年の私で,準々決勝のネタの題名を全てメモしていた。いつどのような形で何が役に立つか分からないものである。今年の分は忙しさにかまけて準々決勝のメモを何も残していないしそもそも動画をあまり観れていなかったのが非常に悔やまれる。閑話休題。昨年の準々決勝ミルクボーイのネタについて,私は「SASUKEとたません」というメモを残している。これを見て思い出したのが,どうもミルクボーイのネタは4分の中に(配信されたミルクボーイの動画時間は4分3秒だったようだ)2つの異なるネタが連続して配置されているように感じたということだった。すなわち,ネタの前半と後半で連続性を掴みきれず,別々のネタを観たような感覚に陥ったのである。これを思い出した後,恐らくミルクボーイの公式YouTubeチャンネルと思われる所の「ミルクボーイの漫才」*3にアクセスしてみれば,「SASUKE」*4と「たません」*5がそれぞれ別のネタとしてアップロードされていた。私の当時の感想はあながち間違っていなかったようである。改めて動画を確認してみれば,どちらも何となく既視感を感じるネタであり,去年の準々決勝のものと骨子は変わらないものであろうことが分かった。ネタの構成も今年のものと同様であり,今日放送された『ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン』でNON STYLE石田明がミルクボーイのネタについて「ポップの二階建てされたあるある・ないない漫才」というようなことを言っていたが,そのポップさが一階分もしくは二階分一般に減らされたものと言うのが近いかも知れない。たませんよりもSASUKEが,SASUKEよりもコーンフレークがポップなのは間違いなかろう。YouTubeに上がっているこの2本はそれぞれが3分40秒くらいの漫才であり,昨年の準々決勝の持ち時間は4分であるから,これら2本を合体させていたとすると,ネタを端折っていたか,間をキツキツに詰めてスピードを上げていたかのどちらかだったのではないかとは思うが,全体的に見覚えのある感じがしたので速度を上げていたのかもしれない。別のネタ2本の合体で,しかも普段とは違うテンポでネタを披露したところからくる違和感が,昨年のミルクボーイを準々決勝敗退という結果に繋げたのかも知れない。

思い出話はこれ位にして,本題は今年のネタに私が感じた違和感である。「感じた」と言うより,後から考えると出てきた,と言う方が近い気はする。1本目を観た直後はそこまで違和感を明確に感じられていなかった。違和感の原因は,ノンスタ石田の言うところの(と言っていいのか。探せば一般的に言われているものである可能性も大いにある)「あるある・ないない」形式にある。

ご存じの通り,ミルクボーイの今年の決勝ネタは,まず掴みで立ち位置左の駒場が客席から地味に一般に馴染み深い何かを受け取り(思えばここでポップの階段を築いていたのかもしれない),そのまま駒場が「オカンが○○の名前が何か忘れた」という状況提供をして,駒場がオカンから与えられた「何か」に「ある」特徴から,立ち位置右の内海がそれを一般に良く知られた△△であると仮定し,そこから駒場がオカンから与えられた更なる「何か」に「ある」特徴・「ない」特徴を羅列していき,その都度内海が「△△だ」「△△じゃない」と右往左往し,最終的には駒場が,オカンは「△△ではない」と言っていたと梯子を外した上で,オトンは絶対に「何か」ではありそうもない「××じゃないか」と言っていたと言い,内海が「絶対に違う」と言って終わる。もう少し書きようはあるとは思うが,これが「コーンフレーク」にも「もなか」にも通底する構造だろう。

このネタで本来気になるべきものは,当然,忘れられた「何か」は本当は何なのかである。しかし,駒場が言うオカンの言っていた情報を全て備えた「何か」は恐らく存在しないはずだ。ということは,神経質な私は,結局「何か」が何なのか明かされることなく,謂わば投げっぱなし的に話が畳まれてしまったようにも見えるこのネタの主題が気になってモヤモヤし続けていなければならないはずである。しかし現実にそうはなっていない。これは何故か。論理的に考えて片付かない問題は個人の選好であるとか好悪判断の問題に帰着させがちな私ではあるが,できる所までその理由の言語化を試みたい。

蓋し,違和感が相殺されているのは,この話が駒場の「オカン」の出した情報に依拠した構造であるからではないか。良くある「オカン」像として,特定の事物に関する話なのに,別の何かの情報が混入したり,全くそれと関係のない訳の分からないことを言ったりする,というのは考えられるところだろう。すなわち,「オカン」は語り手としての信頼度が低いのである。そして,信頼度が低いが故に「何か」が△△であり,かつ△△でないという矛盾が許容されているのではなかろうか。語り手の信頼度が高ければ高いほど,漫才の中に生み出される世界は当然それ自体としての具体性を増していくし,そして世界の具体性が高まれば高まるほどに細かな前提からの破綻が気に掛かりやすくなる,と私は思う。それとは逆に世界観がふわふわであれば,それこそたとえ並立しえないものが一見並立しているように見えようとも,一定程度譲歩しやすくなるのではないか。供述があやふやになりがちというステレオタイプ的な人格を言外に共有させやすい「オカン」によって緩やかな世界を形成できたために,漫才の最中や直後に強烈な違和感を残すことにはならなかったと考えられる。

違和感の話とは離れるが,この形式のネタは非常に日常会話に近いと改めて感じた。オカンが言ってた「何か」が何なのかよく分からない,△△じゃないか,△△じゃないのか,違うらしい,オトンは××じゃないかって言ってたけどね,それは絶対に違う,といういかにも日常的にありそうな普通の会話である。しかも結局「何か」が何なのかは明かされないまま話は終わる。これだけ見ればオチすらない本当にただの日常会話なのに,形を整えるとここまで面白い漫才になるというのは恐ろしい。

ちなみに,私は「コーンフレーク」は本当に頗る面白く感じたが,「もなか」は前者ほど面白いと感じることができなかった。恐らく家系図の例えがしっくりこなかったからだろう。ナイナイ岡村ノンスタ石田は「家系図が見える」と言っていたが,どうも私には「もなかがマカロンの先祖」を具体化し始めた辺りで共感できなくなってしまった。家系図にはポップさが足りなかったのだろうか。

さりとてやはりこのシステムは画期的であったように私にも思え,かまいたちもぺこぱも面白かったが,優勝はミルクボーイと言われても納得いかないわけではない出来であったことは間違いなかろうと感じるほかなかった。