立岩陽一郎=楊井人文『ファクトチェックとは何か』(岩波ブックレット,2018年)

本書*1はファクトチェックという行為がどのような営みであるのかを概説するもので,書中の表現を借りれば「ファクトチェックについて日本で初めて詳しく紹介」*2した本であったらしい。2019年現在は,本書の著者の1人である立岩がより厚い(と言っても176ページほどの)本を新たに1冊出版しているようである(立岩陽一郎『ファクトチェック最前線:フェイクニュースに翻弄されない社会を目指して』(あけび書房,2019年))。

本書によればファクトチェックとは基本的に,ある言説ないし情報について,その内容が事実であるかどうかを調査し,調査結果に基づいてその言説の正確性を評価して,証拠とともに発表する営みであるとされる*3。この,言説の正確性を評価する,というのがファクトチェックの肝であろう。まず,そもそもの前提として,ある言説がその発信者の意見を表明しているのではなく何らかの事実を述べているものでなければファクトチェックに馴染まない*4ことは言うまでもないが,そこで提示された事実とされる事柄について,それが本当に事実と言えるのかを調査し,その正確性にファクトチェッカーが一定の基準に則って評価を下す=正確性に応じてレーティングするというのがファクトチェックである。例えば,「AさんがB会議でCという発言をした」ときに,単なる事実確認であれば「確かにAさんはB会議でCと発言したらしい」という確認で終わってしまうが,ファクトチェックとなれば「AさんのB会議でのCという事実の発信は,調査してみるとどうも事実として存在するのはCというよりC'である。したがってうちの基準に照らし合わせるとこの発言は「大まかに真実」だと言える」というように発言の評価を必ず含む。これが「調査してみるとC'という事実があるようです。みなさんはどう思われますか?」などのように独自の評価が伴わない形態であれば,事実についての調査があってもそれはファクトチェックまで至ってはいないし,また評価を含んだとしても「調査してみれば事実はC'であり,事実と一致する/異なる部分があるから発言は真実/虚偽である」などと評価値が白か黒かしかなくその間のスケールが存在しない極端なものはファクトチェックとは言えないのではないかと思う。第三者的視点から事実言明の正確性を評価するファクトチェックは,それが十全に機能すれば,高度に情報化した現代社会を生きる我々に情報を摂取するための一種の指針のようなものを提供してくれるだろう。

とはいえファクトチェックも人間の営みであり,その評価対象は事実の正確性というそれ自体は非常に抽象的で曖昧なものであることからして,証拠や評価基準が明示されていようとも,ファクトチェック機関毎の,あるいはファクトチェッカー毎の「色」のようなもの(要はバイアス)は消え切らないと思う。国際ファクトチェックネットワークにより発表されたという「ファクトチェック綱領」の五原則「非党派性・公正性」「情報源の透明性」「財源と組織の透明性」「方法論の透明性」「訂正の公開性」*5は本書27ページ*6に言うように重要な理念であるが,ファクトチェックが民主主義に万全に資することを期待するならば,これを遵守する複数の機関が存在する必要があろう。

本書第4章では,経歴の異なる様々な市民が情報の調査に参加し,その調査結果をメディアが裏付けを取ってファクトチェック記事として公開するというコラボレーションを提言している*7。情報源の透明性の原則から要請されるファクトチェック実施者の情報の公開をどの範囲まで行うのか,調査者たる市民に一定の調査の作法を教育するコストをどうかけるのか,市民の非党派性・公正性をいかに担保するのか等,克服すべき問題が様々あると思われるが,これが実現する社会は市民が事実を重視しているであろうという点で少しく興味がある。

*1:立岩陽一郎=楊井人文『ファクトチェックとは何か』(岩波ブックレット,2018年)。

*2:立岩=楊井・前掲注(1)2頁〔立岩陽一郎=楊井人文〕。

*3:立岩=楊井・前掲注(1)21頁〔楊井人文〕。

*4:立岩=楊井・前掲注(1)22頁〔楊井人文〕。

*5:立岩=楊井・前掲注(1)24-25頁〔楊井人文〕。

*6:立岩=楊井・前掲注(1)27頁〔楊井人文〕。

*7:立岩=楊井・前掲注(1)63頁〔楊井人文〕。