『STAND BY ME ドラえもん』

『STAND BY ME ドラえもん』は2014年夏に公開されたドラえもんの映画作品である。例年3月に公開されている所謂「大長編」とは異なる立ち位置で、人気のある短編作品をオムニバス的に収録しつつ、1本の長編映画として筋の通ったストーリー展開に仕立てている。今月20日には続編の『STAND BY ME ドラえもん 2』が公開されている。

私は公開当時ドラえもん熱が殆ど冷めていたうえ、3DCGアニメに対しても余り快い印象を持っていなかったから、この映画に関しては意識的に観ないことを選択していた。ドラえもん熱が再燃した現在になってどうにか観る手段を模索していたところに、続編の公開に伴って金曜ロードSHOW!で放映がなされ、漸く鑑賞に至ったわけである。

総体としては、悪くはない作品であると感じた。

3DCGについては、ドラえもんの歯が高頻度で描写される点に若干の気持ち悪さを感じつつも、全体として違和感を強く感じることはなかった。

ストーリーについても、短編作品がテンポ良く纏められていたように思う。「ドラ泣き」という宣伝文句で売り出していた割には、キャラクターの涙を前面に押し出して演出で泣かせようとするのではなく、淡々とストーリーを進めながら自然と泣かせるような作りになっていたのではないだろうか。

ただ、如何せん、いくつもの短編作品を1つに纏める構成であるが故に、ひとつひとつの物語の起伏が小さく、本作品だけでは感情の揺り幅が大きくはならないのではないかと感じた。『のび太結婚前夜』や『帰ってきたドラえもん』などはそれらだけで過去に感動中編映画が作られた程度には単独で力を持ち得る作品であり、本作では各エピソードにつき原作を出来るだけなぞって余計な脚色を極力しない方針で制作されたのだとしても、それらを並べてしまうと場面ごとの力強さが相対的に弱くなってしまうように思う。とはいえ、纏め方自体は秀逸の感があり、良く出来ていると言っても過言ではないだろう。

本作オリジナル要素であるらしい「成し遂げプログラム」については、高度に自律的に行動し思考するロボットに対する処置として些か暴力的に過ぎるように見えたものの、それでもやはりロボットはロボットで人間ではないと考えれば、本作を纏める軸として取られ得る一つの選択肢であったのかも知れない。

本作を未視聴であったため続編の公開初日鑑賞は見送ってしまったが、こうして視聴した今では心置きなく続編の鑑賞に臨める。CMを見て若干の不安要素はあるものの、可能な限り早く2を鑑賞してしまいたい。

齋藤孝『読書力』(岩波新書,2001年)

本書*1は,日本人に読書力の涵養を訴える本である。著者の齋藤孝は,Eテレにほんごであそぼ』の総合指導や著書『声に出して読みたい日本語』などで知られる。

私が先日来読書への動機付けに飢えていることは既に他の記事で言及した通りだが,その欲求は本書によってかなりの程度,軽減ないし改善されたように感じた。

本書は読書それ自体が一つの技であって,上達を望むためには練習が必須であると述べている*2。この記述によって私の心の負担は大分軽くなった。すなわち,本を読む能力は必ずしも自然と身に付いたり,生得的に獲得していたりするものではなく,修練によって後天的に習得可能な技術であると明示されたため,それであれば今から正しく修練すれば読書力の獲得が可能であるという希望が顕在化したのである。また,ここで言われる読書力とは,「精神の緊張を伴う読書」を日常の習慣としてこなすことのできる力だと説明される*3。この読書力の定義も,自己啓発書や娯楽小説(もっとも,純文学と娯楽小説との違いが私には未だ良く理解できていないが)等の柔らかい文章ではなく,硬派な文庫や新書等の硬めの文章を読みこなす能力を欲していた私にとり,非常に有用なものであると感じた。

そして本書の示す練習方法は,一つの大きな基準として4年間あるいはそれ以内に文庫本を100冊こなし,それに続いて新書を50冊こなすというものだ*4。文庫100冊が基準となっているのは,筆者の経験として読書の技としての質的変化が生じるのが100冊単位であるからだという。なお,本を読んだことの基準は該当書物の要約が可能であることとされている*5。この点,私は文庫をほとんど通らずに新書を読み始めていたため,まずは文庫を読むところから改めて修練を始めたい。

その他,具体的な読書の上達法として音読や三色ボールペンを用いた線引きなどの技術指導も記されているが,個別の技術は適宜導入するとして,主目的たる読書力の獲得に向け,4年以内の文庫100冊読破を目標に修練を積むことにする。

*1:齋藤孝『読書力』(岩波新書,2001年)。

*2:齋藤・前掲注(1)6頁。

*3:齋藤・前掲注(1)9頁。

*4:齋藤・前掲注(1)26-27頁。

*5:齋藤・前掲注(1)18頁。

【ネタバレ注意】『ドラえもん のび太の新恐竜』

例年より5ヶ月ほど遅れて今年のドラえもん映画が今日公開された。早速観て来たので,少し感想を垂れ流そうと思う。本稿にはネタバレが含まれることになるから,注意されたし。

 

まず本編開始前の予告で気になった作品が2本。

1本目は『クレヨンしんちゃん ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』で,公開日が9月11日(金)に決定したらしい。公式サイト*1を確認したところ今月頭には公表されていた情報だったようだが入手できていたかったため甚く驚いた。来月の楽しみとなった。

2本目は『STAND BY ME ドラえもん 2』。こちらは現在のところ公開日未定である。予告映像を見る限り「のび太結婚前夜」と「おばあちゃんのおもいで」が主軸となるのかと思いきや,「のび太結婚前夜」は前作の『STAND BY ME ドラえもん』で取り上げられていたらしい。前作を未鑑賞であるのがもどかしい限りであるがそれは措くとして,主題として結婚式当日にのび太が逃げるということが大々的に取り上げられていたのが若干気に掛かる。結婚前夜に結婚を取り止めようとした静香との対比であるのだろうか。少々違和感があるものの,評価は実際に鑑賞してから下したい。

 

本編について。

ドラえもん のび太の恐竜』を下敷きにしつつ,様々なドラえもん映画作品の要素を取り入れつつも独自色を模索した意欲作と言って良いと思われる。ゲストキャラクターがのび太のために翼を広げて飛べるようになるのは『ドラえもん のび太と翼の勇者たち』のグースケが思い起こされるし,ひみつ道具「TOMOチョコレート」(「ともチョコ」か?)でジャイアンと友達になったティラノサウルスのゴラはどことなく『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』(映画版)に登場したジャイアンのぬいぐるみのティラを思い出す。ともチョコについても,『ドラミちゃん ハロー恐竜キッズ!!』の「おたすけ大福」を彷彿とさせる。ピー助の登場は,感情的には喜ばしいが,理性的には少々本作の解釈が難しくなり,複雑な心境である。

本作は,化石発掘体験コーナーで恐竜のたまごの化石と思しき石を見つけたのび太がタイムふろしきで化石をたまごの状態まで復元しそれを孵化させたことで,双子の新種の恐竜・キューとミューが誕生し,のび太が2匹をある程度大きくなるまで育ててから彼らの故郷である白亜紀の日本まで送り届けるというのが大まかなストーリーである。のび太が新恐竜を過去に帰して生き延びさせようとした結果,現在まで続く鳥類としての恐竜の繁栄に繋がっているという点を見れば,タイムパラドックスの起こり方が他の多くの作品と同じく大魔境パターンに類すると見えなくもないものの,やはりそもそもの発端である恐竜のたまごがループしても戻ってこない点に鑑みればやはり恐竜パターンのタイムパラドックスであると言えよう。これは2011年の『ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ天使たち~』以来のことであり,第2期作品としてはリメイク作品を除けば恐らく初,オリジナル作品としては1988年の『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』以来のことだと思われる。

本作ではのび太たちとタイムパトロールが敵対的に接触する。タイムパトロール隊員のジルがジャイアンスネ夫を暴力的に拘束するのは未来の世界的に問題がないのか気になる所ではあるものの,ともあれ敵対存在としてのタイムパトロールを描いたのは意欲的だったのではないか。ジルに関していえば,タイムパトロールの長官に何度も意見を具申していて,また通常の制服も着用していないことから彼の権限がどういうものなのかも気になる。また,のび太とタイムパトロールの関係について,タイムパトロールがチェックカードという歴史の成り立ちに関係するかを判断するひみつ道具のび太に用いて,のび太が歴史の関係者だから手出しせずに行動を見守る,というのは,のび太のヒーロー的役割が浮き彫りになり過ぎてしまっている感が否めない。のび太が行動した結果として歴史の中で一定の役割を持つことになるべきという私の勝手な役割への期待からすると因果が逆転してしまっている。チェックカードについては『T・Pぼん』辺りに詳しいことが有りそうだと思っていれば,Wikipediaによると本当にそのようであるので,可能であればいつか確認してみたい。

のび太とキューは互いに逆上がりができない,空を飛べないという弱点を抱えており,その克服のため切磋琢磨するという描写が点在しているが,序盤でキューにのび太が逆上がりを克服しようとしている様を見せた場面があったか記憶が怪しい。私には無かったか,有っても非常に印象が薄かったように思え,その後の努力への繋がりが弱かったように思われた。また,序盤でのび太がテストで0点ではなく3点を取ったこととも関連するように思われるが,ラストでのび太は遂に自分で努力して逆上がりに成功する。ここに本作でののび太が進歩する存在として扱われている様子を確認できるかもしれない。丁度先日読み終えた『ドラえもん論:ラジカルな「弱さ」の思想』*2的な進歩できない存在としてののび太とはまた違って一面であると思料されるが,本作の主たる対象層である子供たちはここから何を受け取るであろうか。

本作の主題歌はMr.Chirdrenが担当し,異例の2曲体制である。1つは「Birthday」で,作中では中盤に劇中歌的に1度,エンディングで1度の計2度使われたように思う。もう1つは「君と重ねたモノローグ」で,こちらはクライマックスで1度使用されたように思う。またクライマックスに関して,本作では新恐竜との別れでのび太たちが号泣していなかったのが印象的だった。『ドラえもん のび太の恐竜2006』ではしこたま泣いていたと記憶しており,その辺りのくどさがなく爽やかな別れとなっていたのが好印象だ。

 

最後に来年の映画の予告について。

本編エンディングの後に,2021年のドラえもん映画公開決定のお知らせが流れた。宇宙救命ボートが前進する後ろを巨大な宇宙戦艦的な何かが追いかけ,輪のある星が映された映像だった。公開時期がいつになるか分からないが,去年に続きまた宇宙をテーマにするだろうことは確実であると思われるため,期待して待ちたい。

 

・2020年8月10日追記

書こうと思って忘れていたことが一点あったので追記してみる。

中盤で静香がのび太のどんなところが好きかを述べる場面が存在するのだが,その場面には『のび太結婚前夜』との連続性を感じさせられ,『STAND BY ME ドラえもん 2』への導線を確保しようとしているような印象を受けた。本作単独で成立しないという類いの表現ではないものの,少々鼻に付く場面だったように思う。

*1:https://www.shinchan-movie.com/news/index.html#news200801_2

*2:杉田俊介ドラえもん論:ラジカルな「弱さ」の思想』(2020年,ele-king books)。

ドラえもん のび太と助詞の使われ方

ドラえもん映画作品は1980年から例年3月に公開されている。2020年は新型コロナウイルスの影響により,公開予定日が従来予定されていた3月6日(金)から同年8月7日(金)に変更された*1。この作品群は声優陣が交代した2005年を境として,それより前に公開されたものを「第1期」,それより後に公開されたものを「第2期」と慣例的に呼ぶようである(丁度境界である2005年は作品の公開がなかった)。ドラえもんの映画作品群は,基本的にその表題が「ドラえもん のび太の○○」または「ドラえもん のび太と○○」のいずれかの形式で付けられている。すなわち,表題において「のび太」の後に続く助詞が「の」であるときと「と」であるときの2つの場合が存在する。この表題の命名規則の例外は,2009年以降に公開された第1期作品のリメイク作品であり,それらは「ドラえもん 新・のび太の」または「ドラえもん 新・のび太と」と名付けられているものの,これらの場合においても「のび太の」と「のび太と」の二類型に合流することは変わらない。私は先日『ドラえもん のび太の月面探査記』を視聴し,ついに現在公開されたすべてのドラえもん映画作品を少なくとも一度ずつ視聴したと胸を張って言えるようになったため,従来から考察していたこの表題の命名における助詞使用法二類型の区別について改めて考える機会を設けてみた。

 

思うに,まず第1期と第2期を貫く大原則として,「のび太」の後に続く要素が「○○の○○」の形をとる場合には必ず助詞に「と」が用いられる。これは以下に挙げる他のいかなる法則にも優先する。

他の法則は第1期と第2期を分けて考える必要がある。

第1期については,まず,『ドラえもん のび太の恐竜』から『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』までの初期6作品は全て助詞「の」が用いられている。

次に,第7作以降の作品については,「のび太」の後に続く要素が「物語」に分類されると解釈される場合は助詞「の」が用いられ,「のび太」の後に続く要素に「ドラえもんのび太」の2人が所属していないと解釈される場合は助詞「と」が用いられると考えられる。二類型であるのだから,一方を定義できれば排他的に他方を確定可能と思われるかもしれないが,私はそこまで強い法則を発見できず,区別のために解釈を用いる方法しか見つけられなかったため,両者についてのそれぞれの解釈方法を準備した。これについては第7作以降の作品について,後続要素が「○○の○○」になっていないものを公開年順に解釈しながら確認してみたい。

第7作『ドラえもん のび太と鉄人兵団』。「鉄人兵団」にはドラえもんのび太も所属していないため「と」が用いられていると解釈できる。

第9作『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』。「パラレル西遊記」は中国の白話小説西遊記』を題材としており,物語の要素であるから「の」が用いられていると解釈できる。

第10作『ドラえもん のび太の日本誕生』。「日本誕生」という抽象的な要素が後続しているが,2人が日本を誕生させる行為をなしていると解釈して,それを物語であると考えて「の」が用いられていると考えられよう。

第11作『ドラえもん のび太とアニマル惑星』。「アニマル惑星」に2人は所属していないため「と」が用いられていると解釈できる。

第12作『ドラえもん のび太ドラビアンナイト』。「ドラビアンナイト」はアラビアンナイトすなわち千夜一夜物語を題材としており,物語の要素であるから「の」が用いられていると解釈できる。

第15作『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』。「夢幻三剣士」はアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『三銃士』を題材としており,そこから一見すると物語であるから「の」を用いるものと思われそうだが,実際には「と」が用いられている。これを解釈するに,ドラえもんのび太の作中における役割が関係しているように思われる。作中の「夢幻三剣士」において,のび太は白銀の剣士「ノビタニヤン」,ドラえもんは魔法使い「ドラモン」になる。また,ジャイアンが「ジャイトス」,スネ夫が「スネミス」,しずかがユミルメ国王女「シズカリア」とその変装である旅の剣士「シズカール」兼,妖精の「シルク」という役をそれぞれ担っている(尚,シルクとしずかは現実的にリンクしているわけではない模様である)。『三銃士』における三銃士はアトス,アラミス,ポルトスの3人であり,主人公のダルタニャンは勘定に入っていない。「夢幻三剣士」においては,ノビタニヤン,ジャイトス,スネミスの3人で三剣士ないし夢幻三剣士と名乗っている場面もあれば,ノビタニヤンは白銀の剣士として独立し,ジャイトス,スネミス,シズカールの3人で夢幻三剣士を名乗っている場面も存在する*2。夢幻三剣士に含まれる人員は変動しているか,または三剣士と言いつつ4人であるかの解釈が可能であると思うが,いずれの場合でもドラモンは含まれていない。このとき,ドラえもんのび太の2人が夢幻三剣士に所属しているわけではないから「と」が使われているという解釈が可能ではないかと考える。また本作は,本作以前の題材が存在する「の」作品において題材となった作品が作中に直接登場したのとは異なり,題材作品が直接登場するわけではないことも一つの鍵となるかも知れない。

第16作『ドラえもん のび太の創世日記』。「創世日記」はそれ自体が作中に登場するわけではなく,ひみつ道具「創世セット」を用いてその「観察日記」を付けるというストーリーからその名が付けられたと思われる*3。2人が創世日記を付ける一連の物語だと強引に解釈して「の」が使われている理由と出来ないだろうか。あるいは,創世の日々の記録と考えて物語とする解釈も可能かもしれない。

第17作『ドラえもん のび太と銀河超特急』。銀河超特急にドラえもんのび太の2人は所属していないため「と」が用いられていると解釈できる。

第18作『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』。後続要素が「冒険記」で括られており,物語の要素であるから「の」が用いられていると解釈できる。

第19作『ドラえもん のび太の南海大冒険』。後続要素が「大冒険」で括られており,物語の要素であるから「の」が用いられていると解釈できる。

第20作『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』。後続要素が「記」で括られており,物語の要素であるから「の」が用いられていると解釈できる。

第21作『ドラえもん のび太太陽王伝説』。ドラえもんのび太のどちらも太陽王ではないものの,後続要素が「伝説」で括られているため,2人と太陽王に纏わる一連の物語として「の」が用いられていると解釈できないか。

第23作『ドラえもん のび太とロボット王国』。2人はロボット王国に所属していないため「と」が用いられていると解釈できる。

第24作『ドラえもん のび太とふしぎ風使い』。2人は風使いに所属していないため「と」が用いられていると解釈できる。

第25作『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』。後続要素が「伝」で括られており,物語の要素であるから「の」が用いられていると解釈できる。

以上が第1期の命名法則についての考察である。

 

 

第2期については,第1期よりも単純な法則になっていると思われる。

まず,リメイク作品については,リメイク元の作品の助詞の使用法に従う。

そして,「のび太」の後に続く要素が「○○の○○」となっていない場合は全て助詞の「の」が用いられる。

以上である。非常に単純な法則であるが,2020年現在の最新作『ドラえもん のび太の新恐竜』に至るまで,第2期の作品群についてはこれだけで全てが説明可能である。ただし,第2期の作品の制作は継続しているため,今後これらに則らない新たな命名がなされた時は追加で更なる考察が必要となる。

*1:https://doraeiga.com/2020/news/

*2:夢幻三剣士にノビタニヤンを含むと解される場面は,シンエイ動画ほか『映画ドラえもん のび太と夢幻三剣士』(1994年)38分54秒辺り,42分3秒辺り,55分8秒辺り(原作漫画では藤子・F・不二雄ドラえもん のび太と夢幻三剣士」『藤子・F・不二雄大全集 大長編ドラえもん 5』(小学館,2012年)383頁,460頁,463-464頁)。ノビタニヤンを含まないと解される場面はシンエイ動画ほか・同1時間12分6秒辺り(同じく原作漫画では藤子・同518頁)。

*3:題材には創世記があったのかもしれない

『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』

本作品は2020年春アニメとしてMBS等で放映されていた。1クール12話完結。私は全話をdアニメストアにて視聴した。原作は山口悟による同名のライトノベルシリーズである。原作小説は2014年7月から小説家になろうにて連載され*1,2015年に一迅社文庫アイリスから書籍化された。現在9巻まで続刊している模様だが,元々は2巻完結予定であったらしく,3巻以降は書き下ろしである*2電子書籍化もされている。

私はアニメを6話まで視聴した後に,電子書籍にて原作を3巻まで読了した。アニメ6話までの流れはアニメという媒体に合わせてか多少展開が異なる箇所はあるものの,おおむね原作と一致している。個人的には,カタリナ脳内会議のメンバーがアニメ独自のものであったことには驚いた。アニメにおいてカタリナの脳内には議長,真面目,強気,ハッピー,弱気の5人のカタリナが住み着いているが,原作1巻の作戦会議では議長,議員,書記の3つの役割が確認できるのみである*3。メンバーを5人にして役割を感情と組み合わせることで映像媒体として小気味良い演出が可能となっており,良い変更だったと思う。アニメの7話,8話と9話の後半とのストーリーは原作3巻までには存在せず,恐らくアニメオリジナルの展開ではないかと思われる。7話と8話などは本作の他の話に比べて作画が多少見劣りしていたように感じられなくもなかったが,そもそも本作の画面は基本的には美麗に描かれており,また時節柄アニメ制作の困難さは推して知るべしであろうから,取り立てて大きな問題という訳でもなかろう。全体としては非常にテンポが良く演出も気の利いた良いアニメだった。

公式サイトを確認してみれば,2021年にアニメ第2期の放送を予定しているという*4。原作3巻以降のアニメ化になるとは思うが,どのように映像化されるのか,期待して待ちたい。

*1:山口悟『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…:1』(一迅社文庫アイリスKindle版,2015年)位置No.3394-3395。

*2:山口悟『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…:3』(一迅社文庫アイリスKindle版,2016年)位置No.3054-3057。

*3:山口・前掲注(1)位置No.235-237。

*4:https://hamehura-anime.com/news/978/

瀬名秀明(藤子・F・不二雄原作)『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団』(小学館Kindle版,2011年)

ドラえもん のび太と鉄人兵団』が名作であることは疑いようがない。その小説版の存在はなんとなく知っていたものの,今迄食指が動かず読まないままでいた。先日,AmazonのPrime Readingに本タイトル*1が追加されていたのを発見し,ついに手に取るに至った。

瀬名のインタビューによれば,鉄人兵団は鏡面世界でのリルルとの決戦を境目とした二部構成の物語と取ることができる*2。本作にこの捉え方を適用してみると,第三章までが第一部,第四章以降が第二部ということになる。私は第一部を読んでいる段階ではまだ本作が傑出して面白いと感じてはいなかった。読者の対象年齢を14歳程度に設定した*3ということもあってか文章の表現がやや硬く,小学5年生であるのび太たちを描く文体として適切であるのか判断がつきかねたまま読み進めていた。第二部に突入して最初の頭脳が喋る場面でも,頭脳が様々な声色を代わる代わる駆使する描写に違和感を禁じ得なかったが,そこからのび太たちが再度鏡面世界に進入するあたりでだんだんと文章がすんなり頭に入ってくるようになった。終盤,鉄人兵団との決戦の場面は,何度も視点が変わりながらもそれが非常な緊張感を発生させるのに効果的だったようで,最終的には眦から涙が零れ落ちていた。小説を読んで目頭が熱くなることは時折あっても,涙を流したのは久々であったように思う。三万年前のメカトピアでの老博士と静香たちのやり取りなどは,他人を思いやる心への導線が丁寧に描写されており,原作漫画の行間の補完として自然かつ有効な表現だった。最後まで読み終えて,最終的には良い小説化であると感じた。

Windous版のKindleアプリで読んだせいか,ほとんどの日本語フォントが明朝体であるのに一部の漢字がゴシック体で表示されるのは少々気になった。作品それ自体の評価には無関係な部分ではあるが,とはいえレイアウトは読書の重要な一要素であるようにも思われ,何か解決策が欲しい。

本作を読み終え,折角の機会と思い藤子・F・不二雄大全集で原作漫画*4も読み直した。奇しくもこの本も2011年に発売されたものだ。非常に緻密に細部まで詰められた作品で,瀬名が人生最高の10冊に堂々の1位として挙げる*5のも頷ける。漫画を読み終えて再び深い満足感に浸っていたとき,ふと,そういえば主題歌が掲載された見開きページを見た覚えがないことに気がついた。何度かページをめくり直しても見つからない。同巻に併せて収録された竜の騎士にはちゃんと存在する*6。大全集の大長編を全部めくってみると,どうやら魔界大冒険と鉄人兵団の2作だけは歌詞の見開きが存在しないようだった。魔界大冒険主題歌の『風のマジカル』は武田鉄矢作詞でなかったためとも考えられるものの,鉄人兵団主題歌の『わたしが不思議』の作詞は武田鉄矢である。ひょっとすると,コマ割りやページ割りを緻密に詰め込んだ結果,歌詞ページを挿入する場所をついに見出せなかったのかもしれないが,実際のところはどうだったのだろうか。

*1:瀬名秀明藤子・F・不二雄原作)『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団』(小学館Kindle版,2011年)。

*2:杉江松恋「「ザンダクロスは合体ロボットに」『鉄人兵団』小説化実現まで〈瀬名秀明ドラえもん」インタビュー2〉」エキサイトニュース〔瀬名秀明発言〕(2011年4月1日)(https://www.excite.co.jp/news/article/E1301586909144/?p=4,2020年6月4日最終閲覧)。

*3:杉江松恋「「ザンダクロスは合体ロボットに」『鉄人兵団』小説化実現まで〈瀬名秀明ドラえもん」インタビュー2〉」エキサイトニュース〔瀬名秀明発言〕(2011年4月1日)(https://www.excite.co.jp/news/article/E1301586909144/?p=3,2020年6月4日最終閲覧)。

*4:藤子・F・不二雄ドラえもん のび太と鉄人兵団」『藤子・F・不二雄大全集 大長編ドラえもん 3』(小学館,2011年)5頁。

*5:瀬名秀明「「ドラえもん」からはじまった、僕のSF作家人生」現代ビジネス(2019年7月6日)(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65531?page=3,2020年6月4日最終閲覧)。

*6:藤子・F・不二雄ドラえもん のび太と竜の騎士」前掲注(4)211頁,394-395頁。

永田希『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス,2020年)

本書*1は,その表題の通り,積読の指南書である。

このような表題の書籍を購ったのは,当然,私が多くの本を積読していることの正当性を確保したかったからである。私が読書術系統の指南書を購入するのはこれが初めてであったが,この本は私の目的意識にかなりの程度適合していたと言える。指南書の内容をあまり書き連ねるのは褒められたことではないだろうからその点には触れないが,積読してよいという許しが説得力豊かな筆致で語られたことで,私の積読への後ろめたさは限りなく軽くなった。また,私のこれまでの積読方針,すなわち自らの興味のあるいくらかの主題に関する本について情報を集め,気になったものを無造作に買い集めていくやり方が,そんなに間違っていなかったことが確かめられたことも良かった。読書の仕方としては,私は今まで通読するか,一切本を開かないか,頭から読み始めて途中で読むのを止めてしまうかの3通りくらいしか実践してこなかったから,要所を摘まみ摘まみ斜め読みする作法も覚えていきたいと感じた。

限りある短い人生であるからこそ,自らの精神に過負荷を掛けることなく,胸を張ってこれからも積読を楽しんでいきたい。

*1:永田希『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス,2020年)。