忘れるために書くということ

1年ほど前の記事で,私は「忘れないために書くか忘れるために書くか」というものを書いた。 

kishiryu.hatenablog.com

 自戒も込めて,今改めてこのことについて考えてみることにする。

 

最近,このブログの更新が滞っている。私が如何に物臭な人間であるかが如実に表れていると言えるだろう。とは言え,私は書きたい記事が沢山あるのに書くのが面倒でブログを放置していたわけではない。むしろ逆で,何を書けばいいのか分からなくなったから,書こうにも書きようがないのが現状である。だったら,素人のウェブの雑記なのだから,書きたくなければ書かなければよいという,至極真っ当な批判が私に向けられてしかるべきである。しかし,一度書き始めたからには,終わるときは「終わる」と言ってから終わるのが筋というものであると私は考えており,そして私はまだこのブログを終わらせたいわけではないのだ。仮に一度終えてみたとしても,いずれまたどこかでやりたくなるに決まっている。

ブログを終わらせるつもりがないのならば,記事はできるだけ更新し続けるべきである。終わらないだけで続かないなら意味はない。では,私は何故,今,記事を書くことができないでいるのだろうか。その問題点を解消すれば,あるいは記事の更新を継続できるかもしれない。

そこで今回の主題に立ち戻ることになるのだが,蓋し,私は今,何かを忘れられるほどに,何かを覚えてはいないのではないだろうか。何かを忘れるためには,必然,その忘れるべき何かを覚える必要がある。別にここでの覚えるというのは記憶に定着させるという程強固なものである必要はない。ただ単に私の五感に触れさえすればそれでよい。それで,私は今,何を感得しているであろうか。意識してみれば,椅子に腰を掛け,執筆中の画面に向かい,幾分か静かになった町の喧騒を聞き流しながら,茶を啜りつつ,キーボードを叩いている。これらは全て私が感得しているものである。私はここで,この続きとして,特に感得しているものはないとでも綴ろうと思って筆を進めていた。しかし,改めて意識してみれば,確実に私は様々なものを感得しており,感得し続けている。であれば,私に足りていなかったものは,忘れるべき何か,覚えるべき何かではなく,それらに向けるべき意識であったようだ。

この直前の記事を執筆してから今日まで,本を1冊も読まなかったわけでも,映画を1本も観なかったわけでもない。ただ,それらを忘れようとせず,したがって覚えようともしておらず,一つひとつの事象に意識を向けていたかった。あるいは,私は無意識の内に,意識を向けることを面倒がっていたのかもしれない。物臭の物臭たる所以である。

久しぶりに何か書こうと思ってこうして考えを巡らせてみたが,自分の中では中々満足の行く結論を得られた心持ちでいる。これからは物事に意識を向け,そしてそれを忘れるための努力をしていこう。また物臭が顔を出すまでは。

【ネタバレ注意】『メイドインアビス:深き魂の黎明』

本作は2020年1月17日に公開された「メイドインアビス」シリーズの新作映画である。映倫による鑑賞区分はR15+。

本作の感想を述べる前に,本作鑑賞時における私の「メイドインアビス」シリーズ鑑賞暦を述べておけば,原作漫画は完全に未読であり,アニメ放映時に1周視聴,本作鑑賞前日に復習を兼ねてアニメをもう1周視聴した。本作視聴は公開日。

以下,本題に入る。

映画本編上映直前に,「観る入場者プレゼント」として『マルルクちゃんの日常』第1話「おねがい」が上映された。公式サイトによれば4週連続週替わり4話上映予定の模様*1。マルルクちゃんが可愛くて大変宜しい。上映時間は10分未満程度であったように記憶しているが,計時していたわけではないので確証はない。レイトショー等割引をできるだけ活用しても4話全てを鑑賞するには入場料6000円前後に交通費等々が加わり,さすがに私がひと月で映画に掛けられる支出をオーバーしそうであるのと,後述するが本編の鮮烈な描写に私の精神があと3回も耐えられるか判断がつかないため,4話全てが映画の円盤に映像特典として付帯してくれやしないかと切に願う。

映画本編は,アニメの続きからの新作ストーリーである。ナナチのアジトを後にし,深界六層に向けて旅を始めたところからスタートする。ストーリーをつぶさに記述したところで意味はないと思われるので必要な部分のみで簡便に済ませたいと思うが,私が非常に強く感じたのは,映倫による鑑賞区分R15+指定は確実に必要であったであろうということだ。戦闘における肉体の描写であるとか,ボンドルドの作り出したカートリッジの描写などは中々きついものがある。カートリッジについては「R-TYPE」シリーズにおけるR-9CのANGEL PACKの逸話以上の衝撃を私にもたらした。可愛い絵柄にグロテスクな描写というと私には真っ先に『Happy Tree Friends』が想起されてしまうのだが,本作はあちらよりグロテスクな描写に理由があるとはいえ生々しいことは変わらず,そう言った描写が苦手な者は精神を強く保つ必要があるだろう。私が中学生時分に本作を鑑賞したとすれば,体調悪化により途中退席は免れなかったはずだ。とはいえこのような表現を必要なものとして使用することが決断されただけのことはあり,「メイドインアビス」の深い世界観が克明に描写されていて大変面白い作品に仕上がっていたように思う。プルシュカの来歴に纏わる畳みかけには必然涙腺が緩んだ。個人的にはナナチが外科手術の知識と技術を豊富に有していた理由が判明した点で非常に納得感と満足感が高かった。

メイドインアビス」という物語の中で既に放映されたアニメの続きのお話であることや,非常にショッキングな映像が続くことに加え,そもそもR15+指定ということもあって万人に薦められる作品であるわけでは当然ないのであるが,アニメでこの物語の深淵な世界観に魅了された人間であればきっと楽しむことができるように思う。

瀬田貞二『幼い子の文学〔第25版〕』(中公新書,2017年)

本書*1は,あとがき*2によれば,瀬田が都立日比谷図書館で1976年6月から半年ほどの間,月1回のペースで行った児童図書館講座「おはなし」の講演録である。瀬田が亡くなったのは1979年であるから,本書では晩年の瀬田が児童文学に対してどのように向き合い,考えていたのかを知ることができる。

瀬田の業績といえば,やはり『指輪物語』であるとか『ナルニア国ものがたり』とかの児童文学の翻訳が有名ということになろう。残念ながら私は幼少期にこれらの本を通ってこなかった。辛うじて『三びきのやぎのがらがらどん』を読み聞かせてもらった記憶が微かに残っている程度である。しかしながら私は最近,小説や詩などの文学作品,殊にそれらの中での言葉の使われ方に少しく興味を抱き始めたため,本書を手にするに至った。

瀬田の言語的な思考・感覚は第2章「なぞなぞの魅力」から第4章「詩としての童謡」までに強く直接的に述べられているように思うが,中でも際立って印象的であったのは,第3章「童唄という宝庫」においてイギリスの文学者ハーバート・リードの言「マジック・アンド・ミュージック」を引いている箇所である*3。詩が耳や口に心地よく響き,心に深く響くことで特別な悦びが生じるというリードの感覚を受け,瀬田はそれが「童唄の特質の最たるもの」と捉えている。私もこの感覚は尊いものであると理解する。純粋に耳馴染みが良く,心に沁み込む言葉の集まりは,自然と多くの者に受け入れられ愛されるのではなかろうか。

また,瀬田の立てる物語論で私の心を一番強く打ったものは,物語の「清廉さ」に係る部分である。以下に二箇所を引用する。

小さい子のためのお話というのは, 単に,わかりやすく衛生的であればいい,なんか面白い言葉が入っていればいい,といったものでは絶対ない。それが納得され,満足されるだけの強い力がそこに内在していなければ,お話は成り立たない*4

〔代償を取る,取られるという〕関係をぎりぎりまで煮つめて,子どもにちゃんと納得させる形で書いてある〔中略〕のは,残酷とは言えないと思うんです。もし,「こういうのはかわいそうで,とても子どもに読んでやれないわ」と言うとすれば,それは逆に,お母さんなり,社会なりの衰弱だと思いますね。*5

これもまた非常に説得的な考えだと思う。子供向けの作品であるからと言って,表面的に小綺麗で中身が簡素な空洞になっていれば良いという訳はなく,むしろ物事の本質を着実に捉えた芯の太いものでなければ,子供たちの納得感は得られないように思う。後者の引用は,イギリスの作家アリソン・アトリーの最初の作品である『りすと野うさぎと灰色の小うさぎ』を瀬田が訳したものを朗読したその後の語りであるが,前者の引用で述べられた理論の具体性を,一つの物語を検証しながら導き出している。これは別に幼年物語に残酷さが必ずなければならないということではなくて,残酷なものがあってはならないという考えに対して,それが文学に必須の劇的な要素としてかぎりなく煮つめられて描写されている場合には,残酷さが単なる残酷なものではもはやなくなるということであって,それもまた文学の一つの良質な形態なのである。

何が表面的で何が核心的かという峻別の問題は必ず付きまとうものであるとは思うが,この思考枠組みは私の文芸作品の鑑賞観と非常に親和的であったので,少しずつ考えを深めながら常に心の片隅に置いておきたいと思う。

*1:瀬田貞二『幼い子の文学〔第25版〕』(中公新書,2017年)。初版は1980年。

*2:瀬田・前掲注(1)241-242頁〔斎藤惇夫〕。

*3:瀬田・前掲注(1)61頁。

*4:瀬田・前掲注(1)31-32頁。

*5:瀬田・前掲注(1)186頁。

『オールザッツ漫才2019』白桃ピーチよぴぴ

令和元年最後にして最大の衝撃が生まれた。
正確にはまだ約2日残ってはいるものの,そう言い切って過言ではない存在が私の目の前に現れたのである。

白桃ピーチよぴぴ,だ。

たまたまHDの整理でもするかとTVを点ければオールザッツ漫才の放映中であった。折角だしと思い整理作業もそこそこに番組を鑑賞していたところにこの新星が現れたのである。

ご本人のTwitterによればNSC41期で芸歴1年目らしい。しかし,新人とは思えない圧倒的な完成度であったように思う。

女性アイドル風の出で立ちで,女性アイドルの自己紹介様のフレーズを,身振りを交えて行うという芸風であったが,恐るべきはその再現度である。生身でできるバ美肉の極致とも言えるだろう。

まずメイクや衣装が様になっている。頭の天辺から爪先まで見事にアイドル然としている。次に身振りも凄い。前髪の触り方,体の前での手の動かし方,立ち方,膝の付き方,言葉のまごつき方,その全てが可愛い。そして声が素晴らしい。声の調子,高低,強弱,出し方,あらゆる点で仕上がっている。もうこのアイドルはここにいる。

番組で,そしてTwitterでの反応で,話題の中心となっていたのはよぴぴが最後に残した高速の呪文である。Twitterでは「何を言っているか分からなくて面白い」という声を目にした。確かに何を言っているか分からないことから来る面白さもあるのだろうが,私はそれがよぴぴの面白さの全てではないように思う。

よぴぴの高速詠唱は,締めの挨拶の一部である。あまりその方面に明るくはないのだが,恐らく女性アイドルユニットで良くある(と思われる)リズミカルな自己紹介の形式を踏襲しているのだろう。よぴぴの締めの挨拶は初めは4拍子のリズムで構成されており,書き出せば,

(1拍目)|(2拍目)|(3泊目)|ハーイ(弱起(弱起?))|

毎日|キラキラ|ラッキーエブリー|デイ!(半拍休み)|
すずの|ギャグは|どない|さかい?|

となる。これに続く部分が件の早口言葉なのだが,

今はまだ小さなアヒルの子 いつかはなりたい白鳥の湖
どうも広瀬すずでした
また見てにゃん

最初の一行は「どないさかい?」のある4拍目の裏拍から割り込んで詠唱が開始され,しかもこの分量の早口であるからリズムに当て嵌まるかも定かでない。「どうも広瀬すずでした」はかろうじて聞き取れ,「また見てにゃん」ではまたリズムが復活して終わる。

蓋し,リズムのあった所からリズムが外れることで一瞬理解が飛び,その理解の遅れを取り戻そうと耳に入ってきている言葉を頭の中で反芻して理解しようとするも,早口で理解が非常に困難になっていることで,本来なら理解できていなかった言葉がそこで理解できていたはずなのにさらに理解できなかったという裏切りが生じ,笑いが込み上げてくるのではないだろうか。思い返せば,この締めの挨拶より前のネタの中身でもリズムからリズムを外れる,逆にリズムを外れているところからリズムに乗る,という構成が採られていたようにも思う。

なお,早口言葉の部分に関して,Twitterでは「今はまだ醜いアヒルの子」であるという指摘を散見したが,今回のネタでは繰り返し音を聞いた限りでは「小さな」と言っていたようにも思う。他の出番ではどうなのか聴き比べてみたいところだが,アイドルの自己紹介ということを考えれば自分で自分を「醜い」と形容するのは少し不自然にも思えるとことである。

よぴぴについて書きたいことはまだあるが,ひとまずはこれにて。
こんごのよぴぴの動向に注目したい。

 

ミルクボーイ「コーンフレーク」「もなか」『M-1グランプリ2019』

今月22日に放送された『M-1グランプリ2019』は吉本興業所属結成12年目のミルクボーイが優勝を飾った。私はお笑いが多少好きな一般人だと自分では思っており,おそらくそのような自己認識の人間としては当然と言って憚る必要もなかろうと思うが,彼らは全くのノーマークであった。しかしながら決勝のネタは頗る面白かった。ただの一般人がプロの審査を経た結果を評釈するというのも普通おかしな話であるが,彼らの優勝は納得のいく結果であったと思う。

だが,果たして何故彼らの漫才を私が面白いと思ってしまえたのか,自分にとって若干疑問が残る問題でもある。私は神経質というかどうでもいい些末な部分が気にかかる性癖であり,たとえば同じく今年のM-1決勝で言えば,オズワルドのネタに全自動寿司投げ捨てマシーンというようなくだりがあったと思うが,ピッチングマシンのアームが,板前が寿司を乗せたときには掌が上を向いていたにも拘らず,寿司を投げつけるときには掌が下を向くようにひっくり返っていたのが気になってしまう程度には神経質である。少し考えれば,アームの機構が上手いことひっくり返る構造になっているものだったであるとか,そもそもそんなマシンは存在しないであるとか,漫才の設定を細かく気にしなくて良いであるとか様々の納得方法はあるのだけれども,少なくともネタ中にそのことに気付く瞬間には私の意識はネタの進行から離れてしまうため,ネタに没入し直すまでにワンテンポの遅れが出てしまうし,そのような疑問を持ったという記憶はネタを観終わった後にも暫く残り続けるのである。そういう訳で,何かしら構造に違和感を持ってしまう漫才のネタは,私の中で「あー,面白かった」という感情にすんなりとは結び付きがたい面があるにも拘わらず,ミルクボーイの漫才(1本目)は左程考える過程を経ることなく面白かったと思えてしまった。これは何故であろうか。

先程ミルクボーイが完全にノーマークであったと書いたが,私がミルクボーイのネタを観たのは今回の決勝が初めてではない。いや,少なくともこのエントリを書こうと色々調べ物をするまではすっかり忘れていたのだから「初めてではなかった」と書く方が適切なようにも思われるが,それはさておき,私は昨年2018年のM-1の3回戦と準々決勝のネタは,当時GYAO!で公式配信されていた動画の全てに目を通しており,ミルクボーイは昨年準々決勝までは進出していたので,少なくとも2回,彼らの漫才を目にしていたはずである。昨年3回戦のネタについては残念ながら全く記憶にも記録にも残っていないのでそれについては最早見ていなかったのと変わらないのであるけれども,準々決勝については記録を付けていたため,それを見て当時を振り返ることが可能である。

昨年の準々決勝のGYAO!での配信は,恐らく劇場での出番そのままの順番で視聴することができる構造になっていたように思われるのだが,ミルクボーイは昨年の準々決勝全進出者101組中97番目の動画に位置していた模様である。昨年の準々決勝はM-1公式サイトの記録*1によれば,11月5日月曜日には大阪のなんばグランド花月で,翌6日火曜日には東京のNEW PIER HALLで,恐らく進出者のエントリー地区毎に分けて行われていたようである。配信では東京会場の方が動画順的に先で,大阪会場の方が後の順番に変わってはいたものの,ミルクボーイは大阪会場でもトリに近い順番であったのは違いない。公式サイトの会場情報詳細*2を見るに,東京は準決勝進出者がばらけているものの,大阪ではトリに近い組が団子になって準決勝に進出しているようにも見える。具体的には,ミキ,ミルクボーイ,からし蓮根,アキナ,和牛,スーパーマラドーナが大阪会場最後の6組であるが,この中でミルクボーイ以外の5組は準決勝に進出していた。逆に言えばミルクボーイだけは準々決勝で敗退していたのである。実際の所は私は全く分からないが,この大阪会場ラストの面々の準決勝進出具合を見るに,ここでは有力なメンバーが後ろにある程度固められていたのではないかとも思われ,もしそうであったならミルクボーイは昨年から既に若干頭角を現しかけていたのかもしれない。

M-1公式サイトではネタ順の確認はできるものの,流石にネタの中身までは確認できない。今年のM-1準々決勝・3回戦動画のGYAO!配信が決勝の放映開始直前に終了したように,昨年の配信動画も既に消滅し,再度の公開はされていないようである。偉かったのは去年の私で,準々決勝のネタの題名を全てメモしていた。いつどのような形で何が役に立つか分からないものである。今年の分は忙しさにかまけて準々決勝のメモを何も残していないしそもそも動画をあまり観れていなかったのが非常に悔やまれる。閑話休題。昨年の準々決勝ミルクボーイのネタについて,私は「SASUKEとたません」というメモを残している。これを見て思い出したのが,どうもミルクボーイのネタは4分の中に(配信されたミルクボーイの動画時間は4分3秒だったようだ)2つの異なるネタが連続して配置されているように感じたということだった。すなわち,ネタの前半と後半で連続性を掴みきれず,別々のネタを観たような感覚に陥ったのである。これを思い出した後,恐らくミルクボーイの公式YouTubeチャンネルと思われる所の「ミルクボーイの漫才」*3にアクセスしてみれば,「SASUKE」*4と「たません」*5がそれぞれ別のネタとしてアップロードされていた。私の当時の感想はあながち間違っていなかったようである。改めて動画を確認してみれば,どちらも何となく既視感を感じるネタであり,去年の準々決勝のものと骨子は変わらないものであろうことが分かった。ネタの構成も今年のものと同様であり,今日放送された『ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン』でNON STYLE石田明がミルクボーイのネタについて「ポップの二階建てされたあるある・ないない漫才」というようなことを言っていたが,そのポップさが一階分もしくは二階分一般に減らされたものと言うのが近いかも知れない。たませんよりもSASUKEが,SASUKEよりもコーンフレークがポップなのは間違いなかろう。YouTubeに上がっているこの2本はそれぞれが3分40秒くらいの漫才であり,昨年の準々決勝の持ち時間は4分であるから,これら2本を合体させていたとすると,ネタを端折っていたか,間をキツキツに詰めてスピードを上げていたかのどちらかだったのではないかとは思うが,全体的に見覚えのある感じがしたので速度を上げていたのかもしれない。別のネタ2本の合体で,しかも普段とは違うテンポでネタを披露したところからくる違和感が,昨年のミルクボーイを準々決勝敗退という結果に繋げたのかも知れない。

思い出話はこれ位にして,本題は今年のネタに私が感じた違和感である。「感じた」と言うより,後から考えると出てきた,と言う方が近い気はする。1本目を観た直後はそこまで違和感を明確に感じられていなかった。違和感の原因は,ノンスタ石田の言うところの(と言っていいのか。探せば一般的に言われているものである可能性も大いにある)「あるある・ないない」形式にある。

ご存じの通り,ミルクボーイの今年の決勝ネタは,まず掴みで立ち位置左の駒場が客席から地味に一般に馴染み深い何かを受け取り(思えばここでポップの階段を築いていたのかもしれない),そのまま駒場が「オカンが○○の名前が何か忘れた」という状況提供をして,駒場がオカンから与えられた「何か」に「ある」特徴から,立ち位置右の内海がそれを一般に良く知られた△△であると仮定し,そこから駒場がオカンから与えられた更なる「何か」に「ある」特徴・「ない」特徴を羅列していき,その都度内海が「△△だ」「△△じゃない」と右往左往し,最終的には駒場が,オカンは「△△ではない」と言っていたと梯子を外した上で,オトンは絶対に「何か」ではありそうもない「××じゃないか」と言っていたと言い,内海が「絶対に違う」と言って終わる。もう少し書きようはあるとは思うが,これが「コーンフレーク」にも「もなか」にも通底する構造だろう。

このネタで本来気になるべきものは,当然,忘れられた「何か」は本当は何なのかである。しかし,駒場が言うオカンの言っていた情報を全て備えた「何か」は恐らく存在しないはずだ。ということは,神経質な私は,結局「何か」が何なのか明かされることなく,謂わば投げっぱなし的に話が畳まれてしまったようにも見えるこのネタの主題が気になってモヤモヤし続けていなければならないはずである。しかし現実にそうはなっていない。これは何故か。論理的に考えて片付かない問題は個人の選好であるとか好悪判断の問題に帰着させがちな私ではあるが,できる所までその理由の言語化を試みたい。

蓋し,違和感が相殺されているのは,この話が駒場の「オカン」の出した情報に依拠した構造であるからではないか。良くある「オカン」像として,特定の事物に関する話なのに,別の何かの情報が混入したり,全くそれと関係のない訳の分からないことを言ったりする,というのは考えられるところだろう。すなわち,「オカン」は語り手としての信頼度が低いのである。そして,信頼度が低いが故に「何か」が△△であり,かつ△△でないという矛盾が許容されているのではなかろうか。語り手の信頼度が高ければ高いほど,漫才の中に生み出される世界は当然それ自体としての具体性を増していくし,そして世界の具体性が高まれば高まるほどに細かな前提からの破綻が気に掛かりやすくなる,と私は思う。それとは逆に世界観がふわふわであれば,それこそたとえ並立しえないものが一見並立しているように見えようとも,一定程度譲歩しやすくなるのではないか。供述があやふやになりがちというステレオタイプ的な人格を言外に共有させやすい「オカン」によって緩やかな世界を形成できたために,漫才の最中や直後に強烈な違和感を残すことにはならなかったと考えられる。

違和感の話とは離れるが,この形式のネタは非常に日常会話に近いと改めて感じた。オカンが言ってた「何か」が何なのかよく分からない,△△じゃないか,△△じゃないのか,違うらしい,オトンは××じゃないかって言ってたけどね,それは絶対に違う,といういかにも日常的にありそうな普通の会話である。しかも結局「何か」が何なのかは明かされないまま話は終わる。これだけ見ればオチすらない本当にただの日常会話なのに,形を整えるとここまで面白い漫才になるというのは恐ろしい。

ちなみに,私は「コーンフレーク」は本当に頗る面白く感じたが,「もなか」は前者ほど面白いと感じることができなかった。恐らく家系図の例えがしっくりこなかったからだろう。ナイナイ岡村ノンスタ石田は「家系図が見える」と言っていたが,どうも私には「もなかがマカロンの先祖」を具体化し始めた辺りで共感できなくなってしまった。家系図にはポップさが足りなかったのだろうか。

さりとてやはりこのシステムは画期的であったように私にも思え,かまいたちもぺこぱも面白かったが,優勝はミルクボーイと言われても納得いかないわけではない出来であったことは間違いなかろうと感じるほかなかった。

映画『蛇にピアス』

蛇にピアス』は2008年に公開された蜷川幸雄監督の映画である。原作は第130回芥川賞受賞作の一つである,金原ひとみ蛇にピアス』という小説だ。第130回芥川賞綿矢りさ蹴りたい背中』とのダブル受賞で,当時綿矢が19歳11箇月と最年少受賞を果たし現在においてもその名声をほしいままにしているが,金原も当時20歳8箇月で相当に若くしての受賞である。しかし私は原作小説は未読であるので,この話はこの辺りにしておく。

私がこの作品の存在を知ったのは同窓生との会話の中であり,詳しい日付は忘れてしまったが少なくとも4年以上前のことである。日中何をしていたとかそんなことを話している中で飛び出してきた単語だったように思う。同窓生甲が『蛇にピアス』を見ていたと言ったのに対して,乙が凄い作品だと反応した……ような気がするがもはや記憶が定かではない。しかしながら私が『蛇にピアス』という作品名を衝撃とともに今日まで記憶しており,その結果Amazon Prime Videoに追加されているのを発見して見るに至った。経緯を書き起こしているうち,そう言えば甲が作品について「舌が割れるやつ」などと説明していたから私が衝撃的に覚えていた気がしてきた。乙の反応もその説明に対してだっただろう。

 

主人公のルイ(演:吉高由里子)は,東京のクラブで顔中ピアスに赤いモヒカン,背中に龍の刺青,そして蛇のように舌先が二つに割れたスプリットタンの持ち主アマ(演:高良健吾)に出会う。ルイとアマは同棲して交際を始め,ルイはアマに誘われて,彫師シバの店で舌にピアスを入れる。ある夜,ルイとアマが夜中に街を歩いていた時,暴力団員がルイをアマから奪おうとする。激昂したルイはその暴力団員を殴り倒し,アマに愛の形として暴力団員から奥歯を2本抜き取ってプレゼントする。アマはルイの行動を窘めつつもそれを受け取る。その後,ルイはシバに龍と麒麟の刺青を彫ってほしいと頼み,二体を瞳を除いて背中に彫ってもらう。刺青が完成してからルイは自分の人生の空虚さと対面し,酒に溺れ,同棲するルイを邪険に扱うようになる。ルイは自分を殺すならシバとアマのどちらだろうなどと考えだす。そんな中,アマが急に姿を晦ます。同棲しながらアマの本名も知らなかったルイはそのことを非常に気に病みながらも,シバを頼って警察にアマの捜索願を出す。アマはすぐに死体で発見され,ルイはシバの家に身を寄せる。遺体の状況などからシバがアマを殺したのではないかと思い至ったルイは,アマから受け取った2本の奥歯を粉にして飲み込み,アマの愛を自らの血肉とした後で,シバに龍と麒麟の刺青の瞳を入れてもらい,シバがアマを殺していたとしても大丈夫と納得する。瞳を入れた刺青を自らの生きる意味としたルイだったが,どんどん拡張していた舌の穴は空虚なものであるとみなし,更に舌の穴を拡張することで,自分の中にできた「川の流れ」が激しくなるのだろうかと自問する。

凡その粗筋は以上のようなものである。作品の内容というよりは制度的なことを付言すると,本作は各所に性行為描写が存在するためか,公開時は旧映倫レーティング区分でR15だったらしいが,Prime Videoでは13+となっている。

個人的に本作は具体的に言語化して評価するのが難しいと感じるが,面白いか面白くないかで言えば面白いと感じた。しかし言葉で説明できない。もどかしいものがある。2000年代の渋谷系アンダーグラウンドの空気感の一端が画面から伝わってきたのであろうか。別に私は当時東京に居たわけでもアングラ界隈に居たわけでもないが,ともかくそのような感じの映画の世界観がそんなに悪くなかったのであろう。自分の確からしさが分からず,また寄る辺を如何すべきかも分からないまま人生を漂う中に,漸く自分の人生といえるものを発見できるという,陳腐で軽薄で青臭いかも知れないが,敢えて言葉にするならばそんな感想を抱いた。スプリットタンと刺青という二方面からのアプローチがアクセントだったのかも知れない。原作小説に手を出してみるのも良かろうかと思った。

『オーバーロードⅢ』第6話の「歌う林檎亭」

「歌う林檎亭」は,バハルス帝国のワーカーチームであるフォーサイトが根城にしている宿屋である*1。転移後の世界は転移前の世界と異なる文字を使用しているようであり,アニメでも架空文字で表現されている。アニメ第3期第6話の12分38秒辺りに「歌う林檎亭」の看板が描写され,ここでも当然作中の架空文字の使用を見ることができる。

私はこのシーンを見ているときに漠然と「歌う林檎って英語だとsinging appleだよなあ」などと考えていたのだが,その考えを頭に浮かべたまま看板の文字を見れば,その文字の形と文字数から,どうも中央に「apple」と書いてあるように見えた。この看板は文字の区切り方からどうやら3単語で記されているように思えたため,appleと思しき部分の直前,三分割の最初の部分がsingingと読めないか解読を試みれば,まず文字数が七文字であり,次に二文字目と五文字目,三文字目と六文字目,四文字目と七文字目がそれぞれ同一の架空文字で記されていることが分かったため,おそらくこの部分がsingingであるという予想は正しいものであると思われた。残る未解読部分は三分割の最後のパートの6文字からなる部分である。この部分では,既にsinging appleに使われている文字と同じ文字が3か所で使われており,未知の文字を「_」で示せば「_a_e_n」になると予想できた。ここまでの解読作業は,アニメで用いられている架空文字は英語を基にアルファベットを別の表記で置き換えているものであるという推測の下に行っており,その前提で行けば未解読部分はsinging appleに使われておらず,かつ互いに異なる3つのアルファベットであると分かった。要は「aegilnps」の8種以外の18種類「bcdfhjkmoqrtuvwxyz」の中の3つである。あとは「_a_e_n」の空欄に異なる3つのアルファベットを放り込んでそれっぽい単語ができるものが正解だろうという予想がついた。P(18, 3)=4896であるらしいので,約5000通り全て書き出せばどこかに正解はあることにはなるのだろうが,流石にそんなことはやってられないので後ろの空欄から一箇所ずつ後方一致で辞書検索をかけていった結果「tavern」という単語に辿り着いた。酒場や宿屋を指す古めの英単語らしいということであり,おそらくこれが正解であろう。

そういうわけで「歌う林檎亭」は「singing apple tavern」と表記されることが分かった。この3単語から,バハルス帝国で使われている文字のうち「aegilnprstv」の11種類の字形が判明したことになる。残るは「bcdfhjkmoquwxyz」の15種類ということになるが,他の架空文字の描写があれば今回判明した字形と組み合わせることでこれらも解読することができるのではないかと思われる。

*1:アニメ『オーバーロードⅢ』第6話11分21秒辺り,丸山くがねオーバーロード 7 大墳墓の侵入者』45-46頁。