瀬田貞二『幼い子の文学〔第25版〕』(中公新書,2017年)

本書*1は,あとがき*2によれば,瀬田が都立日比谷図書館で1976年6月から半年ほどの間,月1回のペースで行った児童図書館講座「おはなし」の講演録である。瀬田が亡くなったのは1979年であるから,本書では晩年の瀬田が児童文学に対してどのように向き合い,考えていたのかを知ることができる。

瀬田の業績といえば,やはり『指輪物語』であるとか『ナルニア国ものがたり』とかの児童文学の翻訳が有名ということになろう。残念ながら私は幼少期にこれらの本を通ってこなかった。辛うじて『三びきのやぎのがらがらどん』を読み聞かせてもらった記憶が微かに残っている程度である。しかしながら私は最近,小説や詩などの文学作品,殊にそれらの中での言葉の使われ方に少しく興味を抱き始めたため,本書を手にするに至った。

瀬田の言語的な思考・感覚は第2章「なぞなぞの魅力」から第4章「詩としての童謡」までに強く直接的に述べられているように思うが,中でも際立って印象的であったのは,第3章「童唄という宝庫」においてイギリスの文学者ハーバート・リードの言「マジック・アンド・ミュージック」を引いている箇所である*3。詩が耳や口に心地よく響き,心に深く響くことで特別な悦びが生じるというリードの感覚を受け,瀬田はそれが「童唄の特質の最たるもの」と捉えている。私もこの感覚は尊いものであると理解する。純粋に耳馴染みが良く,心に沁み込む言葉の集まりは,自然と多くの者に受け入れられ愛されるのではなかろうか。

また,瀬田の立てる物語論で私の心を一番強く打ったものは,物語の「清廉さ」に係る部分である。以下に二箇所を引用する。

小さい子のためのお話というのは, 単に,わかりやすく衛生的であればいい,なんか面白い言葉が入っていればいい,といったものでは絶対ない。それが納得され,満足されるだけの強い力がそこに内在していなければ,お話は成り立たない*4

〔代償を取る,取られるという〕関係をぎりぎりまで煮つめて,子どもにちゃんと納得させる形で書いてある〔中略〕のは,残酷とは言えないと思うんです。もし,「こういうのはかわいそうで,とても子どもに読んでやれないわ」と言うとすれば,それは逆に,お母さんなり,社会なりの衰弱だと思いますね。*5

これもまた非常に説得的な考えだと思う。子供向けの作品であるからと言って,表面的に小綺麗で中身が簡素な空洞になっていれば良いという訳はなく,むしろ物事の本質を着実に捉えた芯の太いものでなければ,子供たちの納得感は得られないように思う。後者の引用は,イギリスの作家アリソン・アトリーの最初の作品である『りすと野うさぎと灰色の小うさぎ』を瀬田が訳したものを朗読したその後の語りであるが,前者の引用で述べられた理論の具体性を,一つの物語を検証しながら導き出している。これは別に幼年物語に残酷さが必ずなければならないということではなくて,残酷なものがあってはならないという考えに対して,それが文学に必須の劇的な要素としてかぎりなく煮つめられて描写されている場合には,残酷さが単なる残酷なものではもはやなくなるということであって,それもまた文学の一つの良質な形態なのである。

何が表面的で何が核心的かという峻別の問題は必ず付きまとうものであるとは思うが,この思考枠組みは私の文芸作品の鑑賞観と非常に親和的であったので,少しずつ考えを深めながら常に心の片隅に置いておきたいと思う。

*1:瀬田貞二『幼い子の文学〔第25版〕』(中公新書,2017年)。初版は1980年。

*2:瀬田・前掲注(1)241-242頁〔斎藤惇夫〕。

*3:瀬田・前掲注(1)61頁。

*4:瀬田・前掲注(1)31-32頁。

*5:瀬田・前掲注(1)186頁。