「らしさ」らしさ

発表会やコンクールに何かを出展するとき,「○○らしさ」を求められることがままある。特に若いころほどそうではなかっただろうか。小学生らしさ,中学生らしさ,高校生らしさ,もう少し幅広く若者らしさ,など。

まだまだ人生の諸先輩方には遠く及ばない若輩の身ではあるが,それでもある程度年を取ってくると何となく言わんとせんところは分かってくるもので,自分より若い人の溌剌とした感じであるとか固定観念にとらわれない独創性の高さを見たくなるのである。

とはいえ,「らしさ」とは実に曖昧であるように私は思う。被評価者の所属する属性が評価者にどのように捉えられているかが分からなければ,何を期待されているのかを把握できない。評価する側は,中身が不明瞭な「らしさ」という言葉を極めて恣意的に運用することができてしまうのではないだろうか。「君には○○らしさがあった」,「これには○○らしさが足りなかった」という評価は,なんとなく納得できる空気を漂わせているようで,いまいち何を言っているのか判然としない。いわばブラックボックス的なマジックワードである。

あるいは,多様な評価軸のことをひとまとめにしたかったり,抽象的な項目をファジーに評価する必要があったりするときに「らしさ」を使うと便利であるのかもしれない。しかし,そのような場合でも可能な限り具体的な評価基準を被評価者に示した方が好ましい気がしている。あまりにも漠然と「○○らしさを評価します」とだけ言われても,努力の方向が明確にならない。例えば高校生なら高校生でよいが,「高校生らしさを評価するといわれた。私は高校生だ。高校生の私がすることは当然高校生らしいことだろう」と考えることもできよう。実際,「高校生らしさ」で何でもひとまとめにできるほど高校生に多様性がないわけではないことは誰もが分かるであろう。

評価者側から見た「○○らしさ」には一定の方向性が存在しているはずである。であれば,その方向性を「らしさ」で隠しされると評価される側は困ることがあるだろう。