信教とは何だろう
恐らく現在の日本で多くの人が信じているのは仏教や神道,キリスト教にイスラム教などがほとんどだろう。私の家もそこそこ規模の大きな仏教の一派,言ってしまえば浄土真宗を信仰していた。そこまで信心深いわけではなく,いたって普通の一般的な日本家庭程度の信仰具合だとかつては思っていたのだが,今になって改めて考えてみれば故人の年忌供養も長くやっていたし,家としては結構熱心な門徒だったのだろうとおもう。
私は自分の知る故人の月命日くらいには仏壇に手を合わせて経を読む程度の信仰具合であった。ご先祖はみな浄土へ旅立たれているはずであって,現世に残されている我々が手を合わせることで何が起きているのだろうと考えてしまう程には私は不信心であり,ともすれば罰当たり者などと誹る人もおられるだろう。うちの宗派で罰が当たるの言うのはあまりよく分からないが,いつぞや盆にお参りに来てくださったお坊さんの法話で,勤行を中断した門徒の誰某に罰が当たったという話を聞いた覚えがあるから,多分罰は当たるのだろう。
何年前だか忘れてしまったが,その信仰熱心な実家にちょっとした用事で里帰りしたとき,たまたま居合わせた親類に,なぜ帰ってきて仏壇に手を合わせないのかと問い詰められたことがあった。確かに私以外の親類の多くは家に来た時と家から出る前,仏壇の前に手を合わせて線香を上げていた。他の家庭のことはよく知らないが,どうやらそれがスタンダードな信仰の形態らしい。しかし私は先に言ったように極めて不信心な罰当たり者である故,別に気が向いたらやるからいいではないかと応えた。すると次に飛んできたのは非常識だ,どんな育ち方をすればそうなるんだというお小言である。お小言というよりも声のヴォリュームからすれば大目玉といった具合であった。
私としては,人は各々信仰も信心具合も違うのだから,家庭での自主的な儀礼のやり方まで他人に押し付けないでほしいと思ってしまった。この一件以来,信心とは個人の自由なものではなかったのだろうかという疑問が頭をもたげてやまないのである。とりあえず言えることは,自分の信仰の基準を他人に強制し,従わなければ人格を攻撃することをよしとする考え方は,私にはあまり合わないようだ。
悩みながら書いていたら文章がまとまるまでに予定時間を10分もオーバーしてしまった。ついでに言えば日付も越えている。今後はせめて自分の決めたルールくらいは不必要に破ることのないようにしたい。