【ネタバレ注意】かまど=みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む:走れメロス・一房の葡萄・杜子春・本棚』(大和書房、2024年)感想

かまど=みくのしん、と書くと、かまどとみくのしんが同一人物のように見えてしまうが、わたしが倣っている流儀では、日本語で共著者二名を併記する手法がこれだから仕方がない。

最近流行の一般名詞をそのまま筆名としているような著作の、しかもそれが二名の共著である場合などは想定されていない流儀であろうから、別の流派に倣ったほうがよかったかもしれないが、ひとまず今回はこれで行く。

 

みくのしんは読書の天才かもしれない。高杉流読書術の開祖になれると思う。

まず、彼が行っているのは音読である。書いてある文字を捕まえて、声に出して読む。音という三次元的かつ時間軸も存在する形の流れに文章を固着させるから、ともすれば黙読でなんとなく読んだつもりになっただけで読めていないまま先に進んでしまう危険を緩和できている。

 

わたしが小学生の頃、国語の宿題に音読がよく出された。

教科書の作品を読み上げるのを保護者に聞いてもらい、「音読カード」という台紙に、日付と、作品名、ページ数、それから評価を記録をして、最後に保護者のサインまで求めるというものだった。

わたしは音読が恥ずかしくて嫌いだったから、ほとんど親に聞かせることなく、記録を捏造して提出していた。サインはシャチハタを打っていたが、まじめに取り組んでいなかったのは先生にはバレバレだったと思う。

そんなことをしていたからだろう、まっこと自分勝手な読み方が癖についてしまい苦労をしている。今にして思えば、勿体ないことをしていた。

 

音読は、文章自体を見落として本当に読み飛ばしてしまうことがなければ、いやでも書いてあることを流れに沿って順番に追っていくことになる。

そしてみくのしんは、読んだ部分についての理解に妥協を許さず、けして分かったつもりのままにしておかない。

ここで、書いてあることを分かったつもりにしない、というのは、一字一句の語釈を正確に把握する、ということではない。

文章を真っ直ぐに受け止め、書いてある場景はどんなか、人物の気持ちはどうなっているかを、腑に落ちるまで考えて自分の中で確かに理解する、という行為をおこなっているということだ。

なんとなく、まあこんな感じのシーンだな、と思うではなく、たとえ一部の単語の意味が正確に分からなくとも、つまりこの場面はこういう状態なんだなと、必ず納得をして次の文に進んでいる。

この操作があまりにも重要である。

 

これができるのは、みくのしんが経験の抽斗が豊富であり、その感覚を言語描写に適用させる技術があまりに巧みであるからかもしれない。

みくのしん自身も、本は読んだことがなかったとのことだが一人の文筆家ではあり、文豪が言葉を選び抜いて世界から切り出した文章から、その言葉の拡がり抜き取って再度世界を構築しなおす言語センスは高度なものにも見える。

彼の各作品の感想文を読んでも、正直な心情をそのままに読み取れる文章をきちんと出力できている。言葉に嘘がなく、心に真っ直ぐ刺さってくる。

この感覚が修練で習得できるものでなければ、高杉流読書術は後継者探しに難航するかもしれない。

 

みくのしんは、『杜子春』の感想から、小説が構成と文体の文芸であると感得しているようであるが*1、その理解はありつつも、構成をメタとして冷めた消費の仕方をすることなく、あくまで描写から感取できる世界の認識を第一として読書していた点が、素直に作品に向き合おうとする態度として非常に良いと思う。

 

また、みくのしんの読書する態度として、主人公の隣に一緒にいるかのように振る舞う、というのも一つ特異な点に見える。

単に登場人物に共感したり、自身と同一視したりするのに飽き足らず、その場面にまるで自分が存在するかのように、主人公に語りかけるべき言葉を探したり、作品世界に干渉しようとさえする。

こう書き出してみると、夢小説のようだ。ひょっとするとみくのしんには夢小説家の適正もあるのかもしれない。

しかし実際には二次的な創作はしていず、あくまで読書をしているのみだが、それでいて高度な読解にもなっている。

視点としてのメタな自分を維持しておくのも、高杉流読書術のひとつのヒントになるかもしれない。

 

わたしは、みくのしんほどではないがかつて読書は避けてい、そこからみくのしんとは違う形で本は読むようになって、いまでもある程度は読書の習慣が続いているが、小説をここまで味読することはやってこなかった。

最近ではむしろ、大筋さえ把握できればよいといわんばかりに、細部の描写がこぼれ落ちていくことも構わず、力任せに早く読み進めてしまいがちだったように思う。

精読、というのとは、また違うが、本作を切っ掛けに、描写を漏らさず取り込みながら読み取る読書というものも、意識して行っていきたいと決意した。

*1:このあたりの解釈は、わたしが先日、山田しいた『乙女文藝ハッカソン』全3巻(講談社、2018年~2019年)を読み直していて、強く意識していたせいもあるかもしれない。