西林克彦『わかったつもり:読解力がつかない本当の原因』(光文社新書、2005年)

センター現代文の解答で行う操作は、論理的類推・解釈可能性・妄想の三つだと、予備校の授業でむかし教わった。
論理的類推は本文に書いてあることから直接導ける内容で、適切な選択肢の最適な候補だということは覚えているのだが、解釈可能性と妄想のところをぼんやりとした理解のまま聴講していて当時から内容を把握できていなかった。
どちらも本文に書いていない内容であるという共通項があったと思うが、妄想の方が誤りが甚だしいくらいの感覚で乗り切ってしまっていた。
ここの所の不理解は当時から意識していたから、大人しく講師に質問に行けばよかったと、長年、薄ぼんやり思い続けていた。
本書を読んで、両者の区別は解釈の整合性の問題だったのではないかと、何年もの時を経て理解を更新できた。
ある解釈について、本文に明記はないがそれが否定される描写もない場合は、解釈可能性として適切な選択肢の候補に残り、その解釈に反する記述があるという意味で本文に書いていないといえる場合は、妄想として適切でない選択肢の候補になる、ということだったのではないだろうか。
どちらも「本文に書いてない」という、曖昧というか、ミスリーディングな捉え方を自分勝手にしてしまっていたせいで、悩みの種を増やしてしまっていたように思う。

本文を読んで、本文のない所でどれだけ本文の内容をそのまま再構成できるか、ということが「わかる」ことにおいて重要な気がしている。
特定の文脈から本文を捉え直す際、「わかったつもり」の状態では、本文があっても解釈に必要な適切な部分を参照できず読み違えることがあろうけれど、本文にあたりなおすことで誤読を修正できる可能性は開かれている。
しかしテキストがなければ、誤った理解をしてしまっていると、それは誤ったまま残り続け、修正されることがない。
本文の再参照のときに、自身の理解が誤っているのではないかと思い直せるために、本文の一度の参照と再参照との間の、本文が「ない」時点においても、本文の内容を再出力する精度への意識が欠かせなそうだ。

私は大体何を読んでも「いろいろ」に全部突っ込んだわかったつもりになっていることが多く、再出力、再構成がまるでできないから、理解を深めたい時と場合には、この点注意して読解をしてみたい。