対案が無ければ反論してはならないのか:献血コラボポスターを例として

様々な文脈で,対案が無ければ反論・反対・批判をするな,と語られることがある。一見すると当然のように思えるし,私も中高生くらいの時分にはこの考え方に賛同していた。しかし,この言説は安易にあらゆる場面において適用して良いものなのだろうか。

最近この言説が目に付いたのは日本赤十字社と漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』がコラボした献血ポスター批判批判の文脈である。該ポスターが「環境型セクハラである」とか「過度に性的である」とかいう批判がTwitter上でなされ,それに対して「文句を言うなら対案を出せ」と,これもTwitter上で再批判がなされている。この「対案を出せ」という再批判は,ポスター批判に対する反論の中で必ずしも主流の意見ではないように見受けられるが,それでも少なからず目にしたため今回言及してみることにする。

本件においては,そもそも最初に提起されたポスター批判の主眼とは,それが妥当であるかはさておくとして,該ポスターは有害な表現であるとか公共空間に掲示するのは不適切であるなどと主張することだと考えられる。対して再批判は,該ポスターは献血への参加人数を増加させようとする目的のものであり,それを批判するのであれば,献血参加人数を増加させられる他の代替的手段の提示を伴わなければ失当であるという主張のようである。

両者の主張は論点が噛み合っていないように思われるが,いかがだろうか。

前者が主張するのは現に採られているある手段が適切なものでないということであり,その不適切な手段が採られさえしなければいい立場にある。他の手段が採られる必要もない。

しかし後者は,手段が不適切であるという主張に対して目的に適合する他の代替手段の提示を求めている。目的適合的な何らかの手段が必ず採られなければならない場合においてはある程度妥当する余地が存在するであろうが,そうではない多くの場合においてはこの論理は適当ではないのではないか。

たとえば,本件ポスターが現行のイラストではなく,成人男女の全裸像の性器部分等を含む無修正写真であった場合に,ポスターが不適切であると批判したところで,それでは対案を出せという議論にはならないのではなかろうか。

結局のところ,「批判するには対案を示せ」という再批判が出現するのは,元となる批判の内容に納得ができない場合に,しかしその批判内容について言及することなく,そもそも形式的に瑕疵があるからと言って批判に取りあわないようにしようとする文脈においてなのではないかと考える。

批判に取りあわないことで現状を維持しようとする志向があるこの後者の型の再批判は,批判と真っ向から議論することを避けているようであり,私は最近あまり好かなくなった。手段がおかしいと感じたらまずは何よりも「手段がおかしい」と主張できて然るべきだと思う。

 

それはそれとして,本件献血ポスターが過度に性的で環境型セクハラと呼ばれるものであるのかについて,私は懐疑的である。

なお,私は『宇崎ちゃんは遊びたい!』を読んだことがないため,本作品と今回の献血コラボの文脈全てにコミットできるわけではないことは先に断っておく。

環境型セクハラという言葉は,どうやら主として労働環境におけるセクハラの類型として使われる文脈が多いようであるが,今回の批判ではそれを公共空間に敷衍して捉えているようである。公共空間に過度に性的な内容のポスターが掲示されているため,苦痛に感じるといった趣旨であろうか。

では本件ポスターが過度に性的であるかというと,そもそも表現内容がどの程度性的であるかという客観的な基準を立てること自体が非常に難しい問題である気がするものの,該ポスターイラストは肌の露出が多い衣装でもなければ煽情的なポーズを取らせている訳でもなく,これを見て胸部が殊更に強調されていると感じるかどうかは主観的な問題なのではないかと思う。

批判者の中には,胸部を強調しないで描写することができるにも拘らずあえて強調的に描写しているのだからこれは性的な表現なのであって,それを理解しない者は表現の理解力が足りない,と主張する者もいるようであるが,表現の理解というとこれはまた非常に難しい問題のように感じられ,ある表現が鑑賞される特定の文脈によって理解のされ方は一様でなく変化するものであると考えられるところ,『宇崎ちゃんは遊びたい!』における宇崎ちゃんがおおよそ大きな胸部でもって描写されているのであれば,コラボにあたってその胸部を小さく表現することは必ずしも可能であるとは言い難く,それを非難するのであればそもそも『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボしたこと自体が不適切であったという主張に帰着しそうな気がする。

しかし特定の作品とコラボすることが不適切であるとする理由を,登場人物の胸部が大きく表現されているからとするのは,なかなかどうして首肯し難い。

 

本問題は公共空間をいかにデザインしていくか/することができるかという問題にも直結するものと考えるが,広告やポスターに表現可能な範囲の画定は極めて困難な課題であろう。