昨日には『涼宮ハルヒの憂鬱』*1を読み終えていたのだが,どうにもパソコンの調子がよろしくなく,結局代替機を引っ張り出してそちらからブログにアクセスしている。
涼宮ハルヒシリーズは,私たちの世代のオタクであれば知らない者がない,本書の裏表紙にある内容紹介の文字通り「ライトノベルの金字塔」である。今年の1月発行ではあるものの,当然2019年の最新作などというわけではなく,元々2003年に角川スニーカー文庫から刊行されたものが再文庫化されたものである。
たまたま本書を書店で見かけたとき,初めは,おや,見慣れたタイトルが洒落た表紙になっているじゃあないか,などと思っただけで特に読み直そうという気概も湧かなかったのだが,帯に踊る「筒井康隆(解説より)」の文字に心を射貫かれ,まんまと買わされてしまった訳である。買ってしまったからには解説だけでなくせっかくなら全文を通読すべきだろうと思うと同時に,私が初めてこの本を手に取ってから10年程度時が流れていたし,いま読み返せば新たな発見もあるだろうということで再読を決意した。
帯にも堂々たる売り文句として輝いているが,筒井御大は「「涼宮ハルヒの憂鬱」はラノベである以前に優れたユーモアSFである」*2と仰っている。そして御大は同時に,美少女をキャラクターにしていて,そのようなキャラクターの萌え絵が描かれていることからしてこの作品はラノベであるとも述べている*3。SFの流儀云々に関しては,私はSFをあまり嗜んでこなかったためよくわからないが,御大がそう仰るのならそうなのだろう。そして本作がやはりラノベであるというご指摘にも私は首肯するところが大きい。
本作に登場する名前の付いた女性キャラクターは,主人公であるキョンの小学生の妹を除いて(そもそも妹の名は明かされていないけれども),押し並べて美人なのである。涼宮ハルヒ然り*4,長門有希然り*5,朝比奈みくる然り*6,敵役の朝倉涼子にしたって*7,誰もかれもが美人なのだ。萌えキャラとして連行された朝比奈みくる以外については美人である必然性はひょっとするとないのかもしれないが,谷川流は他のキャラクターについても美人であるとし,さらに美人であることに意味がある描き方をしている。ここが『涼宮ハルヒの憂鬱』が小説として優れている点であり,同時に優れたラノベでもある所以の一つなのではなかろうか。
また,語り部であるキョンの語り口も,本書がラノベたる要素となっていると感じる。キョンは高校生と言ってもつい数か月前までは中学生であり,発展途上にいる若人的存在である。その彼が半口語調で,しかし少し背伸びをしたかのような言葉選びをして語る地の文は,中二病的であると同時に高二病的でもあり,すなわちティーンエイジャーへ働き掛ける力が強い文体であると思われる。いつまでも少年の心を忘れないライトノベル愛読者諸氏にとっては,非常に同化しやすい,ラノベ然としたラノベなのではなかろうか。
さて,再読してみて改めて名作だと感じたこの『涼宮ハルヒの憂鬱』であるが,読み進めるにあたって修辞法上気に掛かったところが1点あったのでそれについてもついでに考えてみたい。
以下が気になった一文である。
しかし情報統合思念体の一部は,彼女こそ人類の,ひいては情報生命体である自分たちに自律進化のきっかけを与える存在として涼宮ハルヒの解析をおこなっている……。*8
この文章,「彼女こそ人類の」の後に「ひいては」が来ているが,「ひいては」の後に「人類の」に対応する表現が見受けられないように感じる。前後の文脈から考えれば,彼女=涼宮ハルヒであり,情報統合思念体が自律進化の閉塞状態に陥っているのに対して地球人類が有機生命体にあるまじき急速な自律進化を遂げていった*9ことからすれば,「彼女こそ人類の〔自律進化のきっかけ〕,ひいては〔後略〕」という風に読むのが相応しいかと思う。少なくとも私はそう読んだ。この場合の文構造上の対応関係は「人類」に対して「情報生命体である自分たち」,「自律進化のきっかけ」に対して「自律進化のきっかけを与える存在」であるが,「人類」と「自律進化のきっかけ」を結ぶ格助詞が「の」であるのに対し,「情報生命体である自分たち」と「自律進化のきっかけを与える存在」を結ぶ格助詞は「に」である。要は「AのX」と「BにXをYするZ」を並列的に表記するときに,「AのX」の「X」を省略可能かということである。
「の」は素直に所有を表わす連体修飾格であると思うが,所有の中身が拾いづらい。丁寧に対応関係と文の要素を拾っていけば内容は恐らく明らかになるとは思われるものの,完全な構造の対比であるわけではないため,私の目には不自然に映ってしまった。これが修辞の妙であったのならば,私の浅学非才を恥じ入るばかりである。