理科の先生はお元気だろうか

小学校の頃,毎週何曜日かの一番最後の授業時間にクラブ活動という時間が設けられていて、たしか4年生以上の児童が強制で何かのクラブに参加させられていたように思う。私は体を動かすのが大嫌いだったから,卓上遊戯部というクラブに参加し,囲碁や将棋,オセロなどに興じていた。といっても公立小学校の教育カリキュラム上のクラブ活動であり,強くなることや勝つことを目標にしていたわけでもないから,毎時適当に駒を動かして時間を潰すだけだった。

せめてトランプゲームならすこしは自分で頭を使って考えながらプレイできるだろうと思い,顧問だった50代くらいの理科の先生に,何か自分たちで遊具を持ってきて遊んでいいかと問うたことがあった。先生は,トランプでも双六でも麻雀でも何でも,自分たちできちんと管理できるなら持ってきて遊んでいい,ただし花札だけは賭け事だから遊んではいけないと答えられた。私は花札が賭け事だというなら麻雀だって賭け事だろうと言ったが,先生は麻雀は別に良い,ただ花札は駄目だの一点張りだった。私はそこに何の線引きがあるのか分からず,結局自分で遊具を用意することなく与えられた将棋とオセロだけで遊び続けた。

今になって考えても,なぜ花札だけがいけなかったのか,その理由は判然としない。札が小さくてなくしやすいからだろうか,しかしそれならば囲碁の石も将棋やオセロや双六の駒も,麻雀牌だって十分に小さいだろう。

けだし,何かを賭けに使うかどうかは人間側の競技外での取決めであり,競技そのものには何の罪もないだろう,というのが小学生の時からの私の変わらぬ思いである。どんな競技であれ遊戯であれ,そこに勝ち負けがあるのなら賭け事は成立させられる。トランプでだって立派に博打は成り立つのである。

その花札に特別のこだわりを示した顧問の理科の先生は,学期の途中で急に顔を見かけなくなった。授業は別の若い男の先生が受け持つようになったし,クラブの顧問もその若いの先生になったようだった。定年退職かとも思ったが,他に年度の途中で急に辞められた教諭は知らないし,集会で退職の挨拶がされたわけでもなかった。

幼心に少し不思議な心証を抱いた先生だったが,別段嫌いな先生というわけではなかった。仮に学校から居なくなられたのが定年だったからだとすると,現在は大層ご高齢でいらっしゃるはずである。お元気でいらっしゃればよいのだが。