『アリスとテレスのまぼろし工場』感想

Fischer'sのモトキが生き物の吐息というものは生臭いものなのだと語ってくれていたのを引用しようと思ったのだが、膨大な動画アーカイブのどれに収められた言葉だったか分からずじまいになったので、そういうエピソードがあったという紹介だけに留めておく。

 

友人に、主題歌は中島みゆきですよ、と言われて慌てて劇場に駆け込んだ。
『ガーズル&パンツァー 最終章 第4話』を観た時にきっと予告で目にしていたはずなのだが、ボーイミーツガール敬遠癖のせいで見落としていたのかもしれない。
慌てて、と言うのは、どうも興行成績が芳しくないらしく9月半ばの公開だというのにもう上映終了した劇場も多いという話だったからだ。
辛うじて上映中のところが見つかり、無事滑り込むことができた。

そんな次第だからこれから観に行く人も多くなかろうし、封切りからひと月経っていることもあるので記事タイトルにネタバレと書いていないが、以下本文では本編の内容に触れることもあるので、観るつもりでまだの人は注意してほしい。
というかさっさと観に行ってほしい。

 

生きることは痛くて臭くて苦しくて、でもその先に希望を見出しながら進んで行くしかなくて、恋というのも痛んで焦がれて気持ち悪くて、でも好きな人と共に居続けるにはぶつかっていくしかなくて、そんな悲しいけどあたり前なことをスクリーンの前の私達が再確認するのに、五実の十年を犠牲にしてしまうのはあまりにも酷ではないか。

最終的には乗り越えられた初恋の失恋として描かれたから救いようがあったが、それでも沙希はまぼろしではなく現実の側の人間で、結局徹頭徹尾まぼろしで向うからは現実に干渉してこずあちら側で完結される正宗たちに比べると、背負わされる傷があまりにも大きすぎると感じてしまう。

一度パラレルワールドに分岐したらあっちはあっち、こっちはこっちで関係ない世界になるというのは魔界大冒険のドラえもんの言*1だが、魔界大冒険が分離独立した別世界であるのと違い、こちらはまぼろしであって現実ではないと区別されてしまったから、現実の存在である沙希の方に深く同情してしまうのかもしれない。

いや待て、そう考えると魔界大冒険より『SSSS.GRIDMAN』の方が近い構造の気がしてくるが、だったらもっとまぼろしの世界に肩入れできていいはずだ。とすると情報が開示された順と深刻さで心の中の重み付けを変えてしまっているのか。度し難い。

 

まあでも、報われなさで言うと五実より園部のような消えてしまったまぼろしの人々の方が深刻ではある。存在するのに耐えられなくなると消えてしまって戻らないという不可逆性も残酷だし、我慢せず胸を張って先に進み続けていいと確信する機会もなく消滅していった人達の無念は察するに余りが有りすぎる。

傷ついても絶望しても自由を奪われても自力ではどうしようもなくなったとしても、諦めずもがき続けなければほんの一瞬で何もかも消えて無くなってしまうのは現実の世界でも変わらない。最後に足掻く推進力に恋する心が使えるのなら存分に使ってやればいい。

人間は誰でも好きになることができる。たまたま今、此処を同じくする他人を好きになれなければ営みは続かなかった。陳腐でちっぽけで調子っぱずれな恋でも未来に直進する熱量を担っている。

 

主題歌の『心音』は中島みゆきが本作の台本に痛く感じ入って*2書かれたようだが、流石と言うか本作の骨子が丸っと詰まっている。中島初のアニメソングらしいが、昨今のアニメタイアップ楽曲にありがちと思われている直接的な作中の表現は極力避けて雰囲気と文脈で一貫性を出す類の曲ではなく、主題を丁寧に抑え出すべきキーワードは惜し気なく使って作り上げられている。

またシングルCDにカップリング収録された『有謬の者共』も、こちらは本作には使用されておらず直接の関係性は不明だが、本作を別の側面から捉え直した曲としても十分解釈することができ、親和性は非常に高く感じる。

当然単体の楽曲としても文句なく成立しており、どちらもすでに各種音楽配信サービスにもリリースされているほか、YouTubeに公式でMVやトレーラーがあるらしいのでそちらでも楽しむことができる。

 

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こちらが『心音』のフルミュージックビデオで、

 

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こちらが『有謬の者共』のワンコーラストレーラーだ。

 

ところで、本作のタイトルの「アリスとテレス」とは一体何だったのだろうか。

映画にはそのような名前の人物はいなかったと思う。施設名までは気を配っていなかったがそれにも思い当たる節がない。

一応簡便に感想を反芻できるように原作小説*3も買って半分ほど読んでみたが、今のところ特に出てきていないと思う。

アリストテレスは哲学者で、アリスはファンタジーなら不思議の国のアリスが真っ先に出てくる――そういえば作中に出てきた少年漫画が哲学モチーフだったし、正宗の父親は若い頃に哲学かぶれだったし、不思議な世界に飛び込むことになった五実はアリス的存在といえばそうなるか。

プラトンの著作にもルイス・キャロルの著作にもあたったことがなくて全く思考が追い付いていなかったが、何の脈絡もない命名ではなかったようだ。となると俄然、テレスが何か気になるが。

 

とまれ、菊入家の未来に平穏と幸福があらんことを願わずにはいられない作品であった。

*1:「ドラミ『パラレルワールドになるわけよ。』のび太『パラ……、なんだいそれは。』ドラえもん『つまりね、あっちはあっちでこっちと関係ない世界としてつづいていくわけ。』」藤子・F・不二雄のび太の魔界大冒険」『藤子・F・不二雄大全集 大長編ドラえもん 2』(小学館、2011年)217頁、386頁

*2:YAMAHAの商品ページより。https://www.yamahamusic.co.jp/s/ymc/discography/1156?ima=0000

*3:岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場〔再版〕』(角川文庫、2023年)。角川文庫をあまり読まないので再版が二刷なのか二版なのかわからないが、再版発行は8月25日、初版発行は同年6月25日。岡田麿里は本作の脚本・監督。

【ネタバレ注意】杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』(新潮文庫、2023年)感想

ネタバレ厳禁と書いてあったが帯だったので許してほしい。
なにをどう言及するにしても本書の情報に少しでも触れたならそれだけである種のネタバレだろう。
読むにあたっては注意してほしい。

 

友人からの勧めで読んだ。
「世界でいちばん透きとおった物語」と聞いて、薄く色づいた桜の花びらを太陽に透かして見たようなほのかな青春の初恋のような中身を想像したが、特にそんなことはなかった。
おそらくミステリと言っていいと思う。

ミステリは昔に赤川次郎を両手で数えられるくらい、東野圭吾を片手で数えられるくらいしか読んでいず、詳細に分析できる経験値はないが、本書はなかなか独特の作品だったのではないか。

メタを巧みに活かした構成で、推理作家が推理作家の話を推理小説として書くストーリーの推理小説という少なくとも三重の入れ子構造が見て取れる。ひょっとすると最後の箱は蓋が開いていたかもしれないが。
最後まで読み終えて冒頭の役割説明もただの修辞的な比喩ではなかったことに気づき、作者の丁寧な伏線の張り方に驚かされた。
ただ実験的なデザインの本作をこのメタ的な構成にしてしまったが故に、本作は自身の中に大きな壁を築いてしまったのではないかとも思う。

 

作中には偉大なる推理作家・宮内彰吾が登場する。主人公・藤阪燈真の書く小説のデザインは宮内のアイデアであり、そして本作も同様のデザインとなっている。
であるがゆえに、本作は解決編で本作のデザインが発覚してしまう。おそらくこれが帯にある「予測不能の衝撃のラスト」なのだろう。
だが作中で宮内は新作となる推理小説デザインのアイデアを提示しながら、しかしその素材となるストーリーを一度そのデザインを使うことなく、読者から「かなり面白かった」、「凄みはなかった」が「普通に面白かった」と言われるレベルで原稿として書き上げている。
結局当初のアイデア通りのデザインでは形になっていないから、そうする際に改編があった可能性はあるが、宮内の執筆動機を考えるとあえてデザインの意図を読者に明かす必要はないと思われ、そうなったときの宮内の作品の完成度を想像してしまうとそちらの方に本作以上の期待を抱いてしまって仕方がないのである。

 

また、本作のデザイン上どうしても仕方がない部分ではあると思われるが、改行が多く見えたのが気になった。しかしこれは私が本を読みなれていないせいで過敏になっていただけで、実際はいたって普通の文章量だったのかもしれない。思えば同じくミステリの『同士少女よ、敵を撃て』*1を読んだときもラノベかと思うほど改行が多かった*2ように感じたのを覚えているから、やはり際立って改行が多いわけではないのだろう。

しかしやはりデザインの構想と実際の組み上がりはすべてが思い通りにはならないようで、私が手に取った版は、物語の最初の一ページはやや印字か綴じ代がずれてしまっていたようだ。またこれも仕方がないが隙間の多い記号や約物類は、デザインが明らかになってからは紙面の映えがどうしても気になってしまった。

 

それにしても、本書のデザインは果たして「衝撃のラスト」なのだろうか。
デザインは常に目の前にあり続けていた。本来、衝撃のし通しではないか。本作ではたまたまそれが解答編で明らかにされたから衝撃のラストかのようにも見えるが、アイデアを同じくする私の中の理想の宮内作品はこれを明かすことなく終わることが可能である。

無いものについて語っても仕方がないが、美しさで言えばあえて秘密を語らない理想の宮内作品に分がありそうな気がする。これに気づいた人の驚愕のしようも一入だろう。だがこれを明かさないときの商業的な戦略は難しそうだ。
本作は種明かしがあるから読者はそのネタバレに気を使ってくれるだろうし、出版側も当然何らかの配慮があるだろう。しかし本筋には全く関係のないただのデザインであれば、あるいは気づいた人が大々的にSNSで真相を発表するかもしれない。それが明らかになってから、出版側でそれを特徴として売り出す戦略も取れるかもしれない(実際にはそれこそ校正等の段階でチェックされるのだろうが)。するとこれはただのデザインであってミステリの要素ではなくなるかもしれない。その場合、衝撃作ではあるがこの点をもって衝撃のラストとは言えないだろう。

とすると本作のデザインはミステリの要素に組み込まれているから、やはり「衝撃のラスト」でいいのだろうか。
気づいていないだけで最初から明らかだったことを理解可能な形で提示されて初めて納得できる人間の認知かもしくは快楽回路は歪んでいないだろうか。
ミステリって難しくないか。

この辺りはそれこそ作中でも言及のある京極夏彦の作品にあたってみれば何かわかるかもしれないが、近々であの分厚さに挑む気分はまだ醸成されていず、そしてやはりそもそもミステリの経験値が少ないから考えをまとめるのは未来の私に任せることにする。

 

あとは作中人物たちの行動の動機を掴みかねる部分が多々あった。父が息子を愛する理由、愛情表現として直接的な方法を採らなかった理由、証拠を消そうとした理由、犯罪を通報しない理由等々、私が精読できていないせいもあるだろうが、外形を一読しただけでは容易には得心いかないところが多かった。
ちょうど直前にたまたまミステリである姉小路祐『動く不動産』(角川書店、1991年)を読んでいて、巻末に付いていた同作が受賞した第11回横溝正史賞(現・横溝正史ミステリ&ホラー大賞)の選評で他の候補作について犯人の人物像と犯行手段が不釣り合い云々と論じられていたのを見てしまっていたのもあってか、その辺りの描写に敏感になっていたかもしれない。
現実の人間の行動にいちいち明確な理由などないのだからフィクションならなおさら書かれたことを事実として受け取ってしまえばそれで良い気もするが、にもかかわらずその乖離が気になってしまうのは論理を用いて快感を誘うのがミステリというジャンルだからだろうか。

 

とはいえそうした細かい点は気になりつつも、一気に読んでしまってからうんうん唸って感想を整理する気を起こさせてくれた本作にはやはり非常な力が宿っていたようにも思う。

*1:逢坂冬馬(早川書房、2021年)。たしかアガサ・クリスティー賞を受賞していたと思うからミステリに括っている。読んだ当時はとくにミステリ要素は意識していなかった。

*2:ライトノベルも他の小説ジャンル同様あまり読んでいないから大いに偏見である。ただ流石に『ゴブリンスレイヤー』(蝸牛くもGA文庫、2016年))は改行多すぎだと思う。叙事詩かと思った。

伊藤計劃『虐殺器官』(ハヤカワ文庫JA電子版、2012年)

書き手は「自分が知っていること」をではなく、「今知りつつあること」を、遅れて知りつつある読者に向けて説明するときに、もっとも美しく、もっとも論理的で、もっとも自由闊達な文章を書く。*1

孫引きである。引用元は小坂井敏晶『増補 責任という虚構』であり、その引用元は内田樹のブログ*2である。ちなみにそのブログ記事は2009年の本人執筆の書評からの転載とのことだ。

孫引きは品がないが、本書を読んでこの本が非常に近しい主題を扱っていると感じたため、あえてこの本を引用元に選んだ。引用部自体は特に本書と関係があるわけでなく、どちらかといえば書かない自分に発破をかけるための選択である。

 

虐殺器官』は伊藤計劃のデビュー作で、2007年に発表された。2010年に文庫化され、その電子化が2012年に行われた。

本書は主として言語と自由と責任が主題となっているように思う。そのうち自由と責任の2点が先に引用した『増補 責任という虚構』の主題と共通している。自由の生起という疑いから責任の行方を考えるにあたり、本書の副読本として携えるのが好ましい一冊だろう。本書はTwitterを探った限りどうやらフランス語版があるようだが、であるならば『増補 責任という虚構』の方もフランスで出版できてしかるべきようであるが如何に。

本書はSFとしての読み応えも当然十分で、未来技術の跋扈する世界観は確かにメタルギアの面影を感受することができた。ハードな内容ではあるもののソフトな文体で表現されているため躓かず読み進められた。所々に挿入された他の有名作品への言及も楽しく、本作を盛り上げるのに一役買っている。総じて満足度の高い作品であった。

*1:小坂井敏晶. 増補 責任という虚構 (ちくま学芸文庫) (Kindle の位置No.6168-6170). 筑摩書房. Kindle 版. 

*2:http://blog.tatsuru.com/2019/01/29_2029.html

木緒なち『ぼくたちのリメイク』4巻中途まで

つらいページは早く繰る。
どうやらそれが自分の性癖であるようだ。

かつてダレン・シャンの「デモナータ」シリーズを読んでいたとき、主人公の一人が洞窟に閉じ込められてしまう場面があった。巻のだいぶ終盤の出来事で、残り少ないページでどうやって洞窟から脱出するのか、心をひどく縮こませて半ば以上読み飛ばしながらページを繰り続けていたのを覚えている。主人公なのだから必ず助かるはずだという根拠のない確信を胸にしつつも、あのとき私は明確に、まったく見出される気配のない救いの糸口だけをひたすら求めて読み進めていた。結局、その巻の残りのページで主人公が救われることはなかった。主人公なのに、助からなかった。あまりの衝撃に読後しばらく呆然としていた。

 

『ぼくたちのリメイク』は現在アニメ放送中の作品で、原作はMF文庫Jから刊行されている。私はdアニメストアで視聴しているから、現在アニメの第6話まで観終えたことになる。職を失った28歳の主人公が突如10年の時を遡り、当時選ばなかった芸術大学へ入学し直してクリエイターとして人生をやり直すべく歩きはじめる、というのがこれまでのあらすじだ。私は10年分の苦渋や諦念、そして技術的な経験を生かして第二の人生で成功体験を積み重ねていく主人公の描き方をワクワクしながら楽しんでいた。そしてアニメ第5話の引きが快く、また私にしては珍しく非常に楽しめるラブコメ作品だったこともあって、原作に手を出すことにした。アニメと比べると原作の主人公の変態度がやや高いきらいはあったものの、2巻まではほぼ順調に読み進められたと言って良い。当然そのままの調子で3巻まで手を伸ばした。そして絶望した。

原作3巻で主人公は才能豊かなシェアハウスの同居人3人と共に同人ゲームを製作する。大手サークルの看板を使って販売することになったため、納期でも品質でも失敗は許されない。そのゲーム製作中の主人公の心情描写が、どうもきな臭い。1巻、2巻で主人公は困難に直面すると、仲間と本音をぶつけ合い、その上で互いに納得と妥協を重ねて次のステップへ進んでいた。ところが3巻で主人公は、仲間に本心を明かさない。嘘を吐くわけではないが、現実的なラインを自分の中に一人で見定め、本音をぶつけてくる仲間を上手くいなして製作を続けた。そこで私は、ははん、と思う。またどこかのタイミングで仲間と本音のぶつけ合いができていないことで仲違いし、それを解決して円満に製作を終えるのだろうと。ライトノベルに大切なのは主人公を少し下げて、それからぐっと持ち上げることだといつかネットの創作論で見た覚えがある。たしかにその流れで1巻、2巻はほどほどに心地良いカタルシスに浸ることができた。アニメでは大笑いしながら浮かれる程度にのめり込んだ。これを繰り返すとなるとパターン化して芸がないのかも知れないが、カタルシスの肝はなるほどここなのだと実感してきてもいた。しかし妙なことに、3巻はなかなか明確なサゲが来ない。不穏な雰囲気だけが充満してきている。Kindleの読書進捗率の数字が大きくなるごとに、焦りが出てくる。そしてだんだんと不安が形になって現れだす。もしかして、このまま上がらないのではないかと。必死に画面を次へ次へとタップする。求めるものは救いである。しかし結局、悪い予感は的中し、下がり切ったまま一切の浮上を許さず3巻は終わってしまった。正直ここで読むのを止めてしまいたかった。一巻丸ごとフリとしてサゲに徹する作品に、今の私の心は耐えられる気がしなかった。しかし3巻のあとがきを見て、ここからが主人公の本当のリメイクの開始なのだという作者のコメントを信じて、4巻を続けて読むことに決めた。すでに若干では収まらない不安と恐怖が漂っていた。

3巻の末尾から、舞台は急に未来に移っていた。10年前に戻りそこで1年を過ごした後、今度はそこから11年未来へと主人公は時間を跳躍したのだ。この未来は過去に戻る前の延長上ではなく、過去に戻り新たな大学生活をした後の延長上にあるようで、主人公はシェアハウスの同居人の1人と結婚し、子供を設けていた。しかし主人公の主観としては11年の時を飛び越えており、結婚も、子供も、現在の自分のことも何も分からない状態だった。早く過去に戻ってくれ、また機転と経験を生かして成功体験を重ねてくれと願い、ほとんど斜め読みしながら画面をタップし続けたが、残念なことに祈りは届かなかった。この未来は、Kindle進捗率30%を超えてもまだ続いている。そこで私は、一旦本書を置くことにした。もう心がつらさに耐えられなかった。

 

ここまで読んで言えることは、非常に残念なことに今の私ではこの作品を芯から面白く楽しむことができないということである。私はやり直しものの成功体験からくるカタルシスを求めて本作を読み始めた。しかしそれが順調に摂取できたのは2巻までで、そこから先は私の求めるものとの高低差が激しすぎる劇物だった。正直、これから本作アニメの視聴を続けるのも怖くなってしまった。しかし、ひとまず一途の望みをかけてアニメは視聴を継続するつもりだ。来週は総集編のようだが。

気持ちを吐き出して、どうにか動悸が治まり始めた。感情とはかくも恐ろしいものかと感じ入るほどだ。ただ、しばらくはただただ幸せな作品に浸りたい。山も、落ちも、意味も要らないから、幸せな作品に心を浸して傷を癒さなければならない。何が良いだろう。きらら4コマなどだろうか。

【ネタバレ注意】映画『映画大好きポンポさん』/杉谷庄吾【人間プラモ】『映画大好きポンポさん』(MFC ジーンピクシブシリーズ、2017年)

以前から予告映像で気になっていた映画『竜とそばかすの姫』が公開となり、映画館まで出向く回数を減らすべく他に何か面白そうな上映作品がないか確認していたら見つけたのが『映画大好きポンポさん』であった。初めて見るタイトルだったが、原作はpixivコミックで公開されている同名作品らしかった。本記事の表題にも書いた通り、既に書籍化されている。

 

本作映画のストーリーは、敏腕映画プロデューサー・ポンポさんの付き人のようなことをしている監督志望の青年・ジーン君が、ポンポさんの書いた脚本でついに1本の映画を作るというものである。こう言ってしまうと単純だが、映画を作るという創作行為が映画になっており、作品完成までの物語はある程度満足のいくものだった。

どちらかといえば、個人的により気に入ったのは画面の構図や効果である。素人目にも分かりやすい光と影の対比や画面分割がふんだんに使われていたほか、登場人物の行動に付けられたエフェクトで心理的な衝撃が上手く表されていたように思う。

 

ストーリー中、やや感覚的ではあるがスッキリしなかったのは2点で、1点目は銀行員・アランについて、2点目はラストの台詞についてである。

1点目。アランはジーン君の高校の同級生だった銀行員で、資金繰りで困ったことになったジーン君の監督作に融資できるよう奔走するのだが、その解決方法に無理矢理感が否めなかった。同級生エピソードとなる回想でもこれといって印象的な個性付けがなされていたわけではなく、ストーリー上いてもいなくてもよいキャラクターになってしまっていた気がする。本作の主人公はジーン君であり、基本的に彼の視点で物語は進むが、ジーン君の監督作でヒロインを務めるナタリーも準主人公のような扱いで、話が彼女の視点になることもあった。そこに3人目の視点でアランが挿入され、視点が散ってしまったのかも知れない。私は本作視聴後にその足で本屋に向かい、原作本を購入*1して読んだのだが、こちらにはアランは登場していなかった。原作本はジーン君監督作の撮影の中身にはそこまで深く立ち入っておらず、その部分の膨らましは映画独自の要素のようであり、どうやらアランはその中で生まれた人物だったようだ。ならば私が感じた違和感もそこまで的外れではないのかも知れない。

2点目。見事に監督作がニャカデミー賞*2に輝き、インタビュアーから作品の最も気に入っている点を聞かれたジーン君は、それは上映時間が90分であることと答える。これはプロデューサーのポンポさんが好むのが90分以下の作品であることを受けてジーン君が見出した答えであると思われる。粋な回答に見えるが、少々疑問を生じさせる答えでもあった。前提として、ポンポさんとの会話の中で、ジーン君自身は1分でも長く楽しめるから長い映画の方が好みであることが示されていた。そして、ジーン君は監督作を撮る上で、その作品を観てもらいたい誰か1人のために制作するという方針を念頭に置いていた。一時はポンポさんに観てもらうために作ることを想起させる描写があったものの、最終的には映画を観て救われる誰かに観てもらいたいというような話の中で、すなわち映画に救われる過去の自分のために作る、というような発言をジーン君は残している(はず。スクリプトがなく記憶頼みになるため断言はできないが、およそこのような感じだったと思う)。そしてこの自分に観てほしいという件は原作にはなく、ここも映画独自である。映画の中でもジーン君が特に90分にこだわるような描写はなかったと思うので、ジーン君の想定観客が過去の自分だとすると、この点を気に入る理由の直接的なヒントが良く分からず仕舞いに感じた。これが例えば2時間と答えたのであったならば、ポンポさんへ向けた諧謔としてすんなり消化できたような気もする。

 

本作映画の全体としてはかなり好みの部類であり、原作1巻も非常に楽しめたから、折に付けて続刊を揃えていきたい。

なお、原作本1巻のメインエピソード全6話は現在pixivコミックの作品ページで無料公開中の模様で、ストーリーだけならこれで補完可能である。書籍版にはコラム、おまけ漫画、あとがきが追加されていた。

comic.pixiv.net

また、原作本の続刊はナンバリングとスピンオフが入り乱れて刊行されており、原作者自らTwitterで読む順(刊行順)を教えてくれているので参考にされたし。

 

*1:1巻だけ。本シリーズはナンバリング3巻、スピンオフ2巻、オムニバス1巻(これも実質スピンオフか?)が出版されている。ひとまず1巻全編と2巻のKindle試し読みに目を通したが、映画の中核的原作は1巻のみだと思われる。

*2:言うまでもなくアカデミー賞が元であろう。ちなみに本作の舞台は「ニャリウッド」である。

【ネタバレ注意】『モンスターハンター』

本稿は本日(2021年3月26日)日本公開の映画『モンスターハンター』のネタバレを含む感想記事である。同日に発売されたNintendo Switch用ソフト『モンスターハンターライズ』とは全く関係ないため、注意されたし。

 

最初に注意が必要かと思われるのは、本作は多少のグロテスクな表現を含むということだ。一応、映倫の公開区分は「G」、つまり一般向けで年齢制限はないが、ぎりぎり人の原形を保った焼死体や、人がモンスターの角や針に貫かれたり、『ジュラシックパーク』よろしくパクリと食べられてしまう描写は普通にある。出血が極端でないというだけに見えたので、それらの表現が苦手な方にはお勧めしない。

 

私は暫く前に、試写会に行ってきたが映画モンハンを観に行ってはならないという注意喚起のツイートが回ってきたのを見ていた。今回それでも観に行ったのは、ツイート投稿者との感性が残念ながら正反対であることに一縷の望みをかけ、そうでなくとも堂々と作品に文句を言う身分を手に入れるためであったと言っても過言ではない。結果は、残念だった。

ちなみに私が得ていた事前情報は、アメリカの軍人(?)ミラ・ジョヴォヴィッチモンスターハンターの世界に転移してしまう、という程度だった。

 

主な不満点は、中盤までの展開である。上映開始から1時間程度までを指しているが、本編時間104分らしいので、ほとんど半分と言っていいだろう。アルテミスがネルスキュラの巣を脱出してからは、専らハンターと諍い合うのみで、モンスターを中心とした描写を望んでいた私からすると、肩透かしを食らった気分になった。

敷衍して言えば、モンスターハンター世界の世界観がいまいち見えてこなかったのである。何故ディアブロスがあの砂漠に居座り、人間を攻撃し続けるのかであるとか、何故リオレウスが不死身で、天廊の守護者と言う存在になっているのか、何故リオレウスを倒すと今度は天廊からゴア・マガラが出てきたのかなど、何故そのピースをそこに嵌めたのか、理解が難しかった。原作ゲームにあったような(と言っても昔のモンハンしかプレイしていないため、最近のものについては良く分からないが)、モンスターの生態系やハンター達を含む人間の社会、文化に関する豊富な情報が殆ど見えてこず、逆に映画である本作がゲーム的にモンスターを目的ありきで配置していったように見えた。世界観を掘り下げるには、現実世界と現地との言葉の壁を超えさせるのが難しかったのかも知れないが、しかし結局英語が分かる現地人は登場できているので、もっと世界観に深みを持たせて欲しかったと思う。天廊に古代文明の遺物という設定を与えたは興味深かったが、もう一歩踏み込んだを是非見せて欲しかった。

 

逆に良かった点は、ネルスキュラとアイルー以外のモンスターの造形で、これはほとんど文句がなかった。ネルスキュラはあまり討伐経験がないため造形を細かく覚えていなかったのもあるが、全体的に黒っぽくてかなり現実の蠍か蜘蛛に近く、アクラ・ヴァシムっぽさもあり、作中で説明されるまで正体が分からなかった。アイルーに関しては、言っては悪いが気持ち悪かった。最近のアイルーはあんな感じなのだろうか?

また、最初の砂上船のシーンでの山崎紘菜の演技は「モンスターハンター」として非常に素晴らしく、ゲームのOPムービーと遜色ないモンハン世界の住人に見えた。

 

私のように幅広い豊かなモンハンワールドの世界観を期待されている方には、本作はあまりお勧めできないのではないと思う。パニックアクションがお好みなら止めはしない。

 

好き勝手に書く

Hatena Blogは90日更新がないと広告が表示されるらしい。日頃は管理画面しか開かず、記事の表示確認は行っていなかったため気付かなかった。流石に見栄えが悪いため、これを表示させなくて良い程度には更新していくことを決意する。

とは言え相変わらず、日々何を記せばいいのか分からないまま生きている。書くべき中身がない生活しか送っていない。そもそも世界に向けて発信する個人の記録に足るような内容など基本的に存在しないのだろう。様々なブログやノートやキュレーションを目にするにつけ、なぜそんな内容をわざわざまとめ上げて発信しているのかと首を捻りたくなることも多い。

逆に言えば、ブログなどそんなもんで良いのかも知れない。ある程度の方向性を付けて一つのパッケージに内容を纏めて発信すれば、あとはそのパッケージを受信した側がそこからどう情報を掴み取るかに全てを委ねてしまって良いだろう。空虚で無味乾燥な文字列ならひたすらネットの海に沈み、誰かにとって有益な情報ならそれを求める者が掬って浚って拾ってくれるだろう。探しやすさは別として。

そういう訳で最低90日に一度は内容の無い文字列でもポストしていきたい。

そして今回から最近の潮流に乗って、記事を改行マシマシで執筆することにした。

正直違和感が半端ではないが、この記法が広まっているということは、結局現状ではこれが見やすく支持されているということなのだろう。

それに中身がない記事を書くことにしたのだから、行間もスカスカにしてしまって構わんだろうとも思う。

無駄に改行を多くして一度記事を公開してみたが、画面を見ると流石に気持ち悪すぎたので、適宜の改行に戻すことにする。何事もほどほどが大事なようだ。